大学における代返について

 授業で出席のチェックも兼ねて、リアクション・ペーパーを配り、書いてもらうことが多い。それに対して、健気に(?)、欠席した友だちの分も書いて提出する学生がいる。
代返は教師(私)を欺く行為であり、それをされた方としてはあまり気分のいいものではない。でも、友だちの為に、文章まで書く「友情」は称賛すべきことかもしれない。
 以前に非常勤講師で教えていたS女子大では、各自1枚の出席カードに毎回、自筆で名前を書くようになっていた。その日に署名のある学生の名前を呼んで意見を求めたら、誰も返事をしない。2人目も呼んだが同じであった。気まずい空気が教室に流れた。そこはスル―して、学生に気が付かれないようにして、その日の出席署名の数と実際の出席数を数えてみた。すると署名は30名、出席数は20名であった。10名の代返があったことになる。授業が終わって専任の先生に尋ねてみたら、「そのようなことはよくあることですよ」と言われた。そこは教員養成の学科だったので、教師の卵はこのような嘘(代返)をついていいのかと、愕然とした。一方、友だちの代返をするのなら、最後までその友だちになりすまし、友だちが指されたら答えるくらいの気概がほしいと思った。
 しかし「教師は教えたがり、学生は遊びたがる」は古今東西の教師と学生の関係であると、潮木守一先生は書いている(『キャンパスの生態誌』中公新書)。それから考えると、代返も、「教えたがる教師」と「遊びたがる学生」のゲームのようなものかもしれない。代返をめぐる攻防をゲームと考え、それを楽しめばいいのかもしれない。
 最近見つけた代返は、たまたま私が名前を覚えていた学生が欠席し、その日のリアクション・ペーパーにその名前のあることから気が付いたものである。教師(私)が気が付いていないと思うのは学生も甘い。この始末をどうつけよう。ペナルティーか、それとも「友情」への称賛か。

大学における私語について(その2)

大学における私語についての文章(5月8日)を、学生に示し意見を求めた。私は学生から、「先生の授業の内容や方法に問題があるから私語が多くなるのですよ」とか、「私語は教育社会学の研究になるとは驚きです」とかいう反応があることを期待した。
しかし、そのような反応はなく、一言、「学生は何も考えていないじゃないですか」と言われた。大きな肩すかしをくらわされた感じ。

最後に動き出した明治大学

今日(5月17日)は、放送大学(文京学習センター)から帰ろうとしたら、同じ建物にある「筑波大学 大学研究センター」で、大学職員向けの「大学マネジメントセミナー」」の第1回が開催されていたので、聞かせてもらった。
テーマが、「最後に動き出した大規模私立大学」というのが興味深く、講師は明治大学教学企画部長の御子柴博氏であった。(受講者は200名近くいた、私語ひとつなく、皆熱心に聞いていた)
明治大学は創立が1881年(明治14年)と、歴史のある大学であるが、1953年から2003年まで50年間、学部の改組もなく、何も改革してこなかったとのこと、それでも潰れることなく、現在に至っているという。明治大学は、1955年は、一部24458名、二部10618名と、3分の1は、2部(夜間)の学生だったとは驚きである。それが現在(2012年)は、2部を廃止し、学生数32583名、専任教員数825名、職員数537名の大規模な大学になっている。改革が遅れた理由として、各学部の独立性(教員は明治大学○○学部教員ということに誇りを持っている)、学生運動(入学時に大学が一括徴収した自治会費が学生セクトに渡っていた)の存在が挙げられていた。現在は、リバティータワー、アカデミックコモンはじめ、大学を象徴する大きな建物も建ち、グローバルCOE,グローバル30はじめ、多くの政府資金を獲得し、さまざまな改革も進め、学生が多く集まっている。
その秘訣は、全学的な見地に立っていた職員も大きな役割を果たしたこと、長期計画もなくゆっくりとした助走をしてきたことにあるという。
自然体で、篩にかけ、いいものを残していったような感じの大学である。学生は、「明治ですから」「明治でもできる」が自然に口から出てくるという。

http://www.rcus.tsukuba.ac.jp/pdf/2012pdf/RcusUMS0902th.pdf

宝くじ

遊びには4種類があると言われる。「競争」「模擬」「めまい」「運」の4つである。
そのうち、「競争」と「模擬」は意思を働かせる能動的な遊びであるのに対して、「めまい」と「運」は意志を働かせることのない受動的な遊びなので、近代ではあまり奨励されない。
今人気のスポーツの野球とサッカーを比べると、「競争」な要素はどちらも強いが、勝敗を分けるのはチームの強さだけでなく、ボールがゴールにうまく入るかどうかの「運」によるところも大きい。サッカーの面白さは、偶然が重なりゴールして点が取れるかどうか、つまり「運」にかかっている部分もあるように思う(その点、テニスは、ほとんど番狂わせはなく、腕の上位者が勝ち、ハラハラ感がなく、人気がいまいちである)。このように考えると現代は、「運」も尊重されている
「運」によって決まる一番のものは、宝くじであろう。 多くの人が「宝くじ」を買っているが、「宝くじ」を買うことに、人は抵抗感がないのであろうか。
私自身は、ミーハー なので、人がやっていることは何でもやって見たいという気持ちがある。そこで、宝くじを時々買うことがある。でも、人生を宝くじに託していいのだろうかと思い、つまり後ろめたい、恥ずかしい気持ちがいつも付き纏う。人生を、意思の力で切り開く可能性がなくなった人(つまり老人)が、宝くじに運を託す、そのようなものと、私は宝くじを考えている。(だから、「歳から考えて、君には買う権利がある」という声も、どこかから聞こえてくる)。
別の見方として、人生の多くは、運によって決まる部分が多いといわれる。社会的地位を決めるのも、親の地位や本人の能力や努力や学歴ではなく、「運」だという実証研究もある。それを考えれば、人生は「運」に満ちているのだから、「宝くじ」も、いいかもしれない。
 

浜崎あゆみのアンドロイドのような人工的仮面の意味するもの

 今日の東京成徳大学「青年文化論演習1」では、先週に引続き、歌(J-ポップ)の分析で、浜崎あゆみの「Duty」や「Vogue」の歌詞を考察した藤原新也のもの(『名前のない花』、東京書籍)を取り上げた。
藤原新也は、浜崎あゆみが「喜怒哀楽の感情の見えない完璧なまでのヒューマノイドな仮面を被ったまま、彼女はきわめて人間的な、時には古風とさえ言える完璧なまでのスタンダードな詞を書き、歌っている」と考察し、その様な外面の「健全な無表情」は、1990年代の「時代の抑圧への防御規制として身につけたもの」としている。
「Duty」や「Vogue」の歌詞の内容は、恋歌と読むのは平凡で、過去に美しく花開いた自分(浜崎)への郷愁、諦観をうたっている、と解釈している。
「90年代,『ひきこもり』が象徴するように、時代の、そして個人の未来図がまったく描けなくなったこの閉塞時代にあって」「幼態成熟としての身体や文化がこの社会の中枢を形作くりつつある」としている。
浜崎あゆみが一世を風びした1990年代は、若者たちにとって先の見えない閉塞の時代だったとすると、今の2010年代は、若者たちにとってどのような時代なのであろうか。演習に参加している5名の学生に、これから時代は、君たちにとって希望の持てる時代なのかどうかを尋ねた。すると5名とも、大学時代以上に楽しい希望のもてる人生が待っているだろうという楽観的な予想を述べてくれた。震災や経済的不況など、先行き暗いニュースが言われる中で、今の若者が、あっけらかんと、未来への希望を述べてくれるのは、せめてもの救いである。是非、これらを実現してほしい。「予言の自己成就」ということもあるので、「希望を持てば、それが実現する」可能性も高まる。
今日も、浜崎あゆみの歌は、学生の持っているスマ-トホンから、ユーチュ-ブで、聞かせてもらった。

追加(藤原新也 CATWALK 5月30日より転載)

私は十年ほど前に浜崎あゆみの歌詞と私の写真のコラボをしている。
このオファーがあったとき、浜崎のことをサイボーグみたいな厚化粧をした女の子程度のことしか知らなかったからあまり乗り気ではなかった。
とりあえずそれまでのCDを全部送ってもらうことにして、一日かけて全部何度も聴いた。
非常に面白かった。
この子の存在は単純なものではなかった。私はこの子の中にある、ペルソナ的性格にひかれた。
ルックスはあのようにサイボーグのようだが、彼女の書く歌詞は実にウエットだった。ある歌詞などは与謝野晶子を髣髴とさせた。
と同時にその歌詞の中にある彼女の個人的な“痛み”に気づかされた。
彼女は幼児のころ父親が家を出て行っている。
その痛みは彼女のヒット作「Tddy Bear」の中に如実に現れている。

♫あなたは昔言いました
目覚めれば枕元には
ステキなプレゼントが置いてあるよと
髪を撫でながら
私は期待に弾む胸
抱えながらも眠りにつきました
やがて訪れる夜明けを
心待ちにして
目覚めた私の枕元
大きなクマのぬいぐるみいました
隣にいるはずのあなたのと引き換えに

当時浜崎を聴く子らはこれを失恋歌として聴いていた。
しかしそれは違うなと思った。
離れて行く彼氏が彼女の枕元にクマのぬいぐるみを置いて立ち去るだろうか。
それは失恋歌ではなく、父親との別れ歌だろう。
そう思った。
浜崎の歌にはそのようにいつも喪失した父への想いが通奏低音のように流れている。
彼女が自分の身体をサイボーグのように無表情なものにするのは、それは心の痛みを隠す仮面のようなものだと言える。
その仮面をつけて歌う父親不在歌はあの当時の多くの少女の心に共鳴した。
それは実際に父親を失った子のみならず、父親が居るにも関わらずそこに父親が居ない、いわゆる父性不在という時代を巻き込んだ現象であるとも言える。