今 学歴社会は?

かって日本の教育の諸悪の根源は「学歴社会」にあると考えられた時代がある。それだけ、就職や昇進に学歴がものをいい、学歴競争も激しかったのであろう。今はどうなのであろうか。都市の高所得者層の子どもを中心に早期の「お受験」はあるにしても、高校受験、大学受験に関しては、かってほど競争は激烈ではないのではないか。高い学歴が人の将来を保証しなくなっている。

今回の新総裁選や新しい内閣の大臣選出の新聞報道を見ていても、その候補や閣僚の学歴に言及されることはなかったのではないかと思う。学歴の価値の低下が伺われる。ただ、9月17日の「朝日新聞」の朝刊で、新内閣の名簿を見ると、そこには出身大学が記載されていた。(ただ、そのことへの言及はない。みた読売新聞と日経新聞も同様に、閣僚の学歴が掲載されていた。他の新聞はどのようになっているのか、わからない)

それで閣僚の出身大学を見てみると、米国の大学4名(ハーバード大学院2、コロンビヤ大学院1、ジョージタウン大1)、東大4名、慶大3名、その他の私大8名(早稲田1、上智1、明治1、法政1、学習院1、中央1、玉川1、日本1)、千葉大1名、高卒1名 である。

閣僚の日本の出身大学は東大は4名とそれほど多いわけではなく、いろいろな大学に散っている。アメリカの大学・大学院が4名と多いのが目立つ。それから、閣僚の出身県はさまざまであろうが、出身大学が日本場合、全て首都圏(それもほとんど東京)というのは、偏りを感じる(地方国立大も地方の私学の出身者も一人もいない)。政治の世界は特殊な世界で、閣僚の出身大学から、日本の学歴主義の傾向を判断することはできないと思うが、何か今の社会の傾向を表しているようにも思える。

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韓国ドラマ「彼女はキレイだった」を見始める

2015年の韓国ドラマ「彼女はキレイだった」をネットフリクスで見始めた。最初「なんか失礼な題だな」と思ったが、ストリーを知って納得した。女性が「キレイ」ということはどういうことなのかといろいろ考えさせられた。男はキレイな女性に惹かれるのは古今東西普遍的のようだが、それはなぜなのだろう。(女性がイケメンの男子に惹かれることもあるが、男のそれには及ばない)。

第1話のストリーは次のよう。<(ヒロイン)ヘジンは小学生のころ相思相愛だったソンジュンがアメリカから帰国するとのメールを受け、(親友)ハリに待ち合わせ場所まで送ってもらう。そこに現れたソンジュンは肥満児だった過去をみじんも感じさせないイケメンに成長しており、正反対の残念な女性に成長した自分を恥じたヘジンは、(超美人の)ハリに自分の代役を頼み…。>

最近大人気の韓国ドラマ「梨泰院クラス」の中卒で前科者で飲み屋の社長の男ぽいヒーローのパク・セロイを演じたパク・ソジュンが、このドラマではアメリカ帰りのお坊ちゃんのかっこいいイケメンを演じていて、最初その育ちのよさから同一人物とは思えず、思わずネットで調べてしまった(パク・ソジュンが好きな女性ファンにはたまらないであろう)。

女性がキレイであると男からちやほやされることが多いが、それに奢れることなく、懸命に生き、いい性格ややさしい心情を保持することは難しいのではないか。その点そうでない女性の方が、努力家でいい性格でやさしい心根の人が多い(、と私は思う)。ところが愚かなことに、男は美人の方に惹かれる。

「彼女はキレイだった」のヒロインは、そのことがわかっていて、幼馴染のイケメンに自分の正体を明かせず、超美人の友人に代わりになってもらう。そこに悲しみがないわけではないが、持ち前の元気さと笑いで吹き飛ばすのが、このドラマの魅力である。

<追記>もちろん女性がキレイになるように努力することは、自分の顔や体を素材に美を追求することであり、画家がキャンバスを素材に美を追求するのと変わらないことで、非難されるべきことではない。また男が女性の綺麗さに惹かれるのは、美しい絵や美しいものに惹かれるのと同様で、自然なことであると思う。

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書評について

学会誌や新聞などで、書評をみる機会が多い。書評の書き方のルールがあるのであろうか。一般的には、本の概要を紹介してそれに若干のコメントを加えるというものだと思うが、評者はそれだと面白くないと思うのか、書評を利用して持論を展開するひともいる。慇懃無礼な書評もあるし、見当外れの酷評を書き、著者の逆鱗に触れるものある。学会誌では、著者に反論を書く機会が与えられる場合もある。いずれにしろ、人と人との意見の交換なので、難しいところがある。

新聞などの書評は、内容の忠実な紹介や批判よりは、読者がその本を読みたくなるような書き方が要求されるのではないか。大新聞は著名な人は書評を書いているので、その書き方が皆上手で、読みたくなるものばかりで困る。今毎週土曜日の朝日新聞朝刊には教育社会学の本田由紀・東大教授がよく書評を書いていて、その選択の本が興味深く、さらにその視点、構成、文章が巧みでいつも感心する。新聞で本田教授が取り上げている最近の本は、下記のである。そのいくつかを、記録にとどめておく。(朝日新聞デジタルより転載)(www.asahicom.jp/articles/

(本田由紀・書評本、最近のもの)『科学の人種主義とたたかう』 アンジェラ・サイニー〈著〉(2020/09/12)/『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』 スラヴォイ・ジジェク〈著〉(2020/08/29)/『悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治』 エイコ・マルコ・シナワ〈著〉(2020/08/22)/『「山奥ニート」やってます。』 石井あらた〈著〉(2020/08/08),/『新自殺論 自己イメージから自殺を読み解く社会学』 大村英昭、阪本俊生〈編著〉(2020/07/25、/『道行きや』 伊藤比呂美〈著〉(2020/07/11)、/『学校の社会学』 M・ブランシャール、J・カユエット=ランブリエール〈著〉(2020/07/04)/『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』 田野大輔〈著〉(2020/06/20)/『鉄筆とビラ』 都立立川高校「紛争」の記録を残す会〈編〉(2020/06/06)/『校歌の誕生』 須田珠生〈著〉 『音楽文化 戦時・戦後』 河口道朗〈著〉(2020/05/23)/『保健室のアン・ウニョン先生』 チョン・セラン〈著〉(2020/05/09)/『先生も大変なんです いまどきの学校と教師のホンネ』 江澤隆輔〈著〉(2020/04/25)/『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』 レベッカ・ソルニット〈著〉(2020/04/11)

(書評)『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』 スラヴォイ・ジジェク〈著〉/ 野蛮を脱する世界連帯の未来像/ 本書の原著は、新型コロナウイルス感染症(COVID―19)の世界的流行が顕在化してきた、今年2月から3月にかけて執筆されている。それが急遽(きゅうきょ)刊行され、さらに翻訳されて、7月に日本でも出版された。/ 驚くべきは、流行の早い段階で短期間に書かれた本書には、全人類を脅かすウイルスがもたらす社会的・経済的・文化的な影響と、それをいかに乗り越えてゆくべきかについて、私たちが考えなければならないことがきわめて包括的に論じられていることだ。/ 感染拡大をめぐり、国家はときに情報を隠したり歪(ゆが)めたりする。しかし危機のもとでは、独裁もポピュリズムも役には立たない。環境破壊は新しいウイルスの流行をこれからももたらし続ける。従来の市場メカニズムは十分に機能しなくなり、生産や流通を市場以外の方法で調整しなければならなくなる事態も生じる。「我々はみな同じ舟に乗っているのだ」。共通の脅威を前に、資本主義にしがみつくのでも、国家間対立でもなく、世界的な連帯こそが必要だと著者は述べる。/ より身近な生活に目をやれば、外出や営業が制限される中でも、いわゆるエッセンシャルワーカーは仕事を続けなければならない。感染症患者を受け入れる医療の現場では負荷と疲労が極限まで増大する。それは、テレワークで安全に隔離された「クリエイティヴなチーム業務」における利益や昇進をめぐる競争とは全く異なる性質の疲労であり、著者はその疲労が報われるべきだと主張する。/ 描かれる新しい「共産主義」が夢想にすぎないと冷笑されるであろうことも著者はお見通しである。しかし、ロックダウンに際しての補償、検査キットの製造と供給などの形で、生命と生活を維持するための非市場的な施策はすでに現実化している。パニックと野蛮を脱してその先に進むことを選ぶのであれば、著者の掲げる未来像から目を背けることはできない。 評・本田由紀(東京大学教授・教育社会学)

 (書評)『学校の社会学-フランスの教育制度と社会的不平等』 M・ブランシャール、J・カユエット=ランブリエール〈著〉/ フランスの教育社会学といえば、ブルデューやブードンの研究が著名である。しかしそれ以外は英語圏の研究が参照されがちな中で、本書は近年のフランスの教育の動向と多様な研究成果を、「不平等」を軸に包括的に紹介している。/ バカロレア(大学入学資格試験)の取得率は増加したが、家庭背景や性別などによる進路選択の偏りは残る。複雑に分岐した教育制度と、減少したとは言え留年の仕組みをもつフランスでは、不平等を把握するために多様な指標を用いる必要があり、そこが研究者の腕の見せ所(どころ)となる。/ 進学率が上昇しても相対的不利が続くことを表す「引き延ばされた排除」など、普遍的有効性をもつ諸概念が目を引く。/ 訳は硬めで、他の言葉を充てた方がよいのではと思われる箇所もあるが、「教育格差」が話題となっている日本の現状と照らし合わせて読むことで、現代における教育の隘路への理解が深められるだろう。(評 本田由紀)

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偶然ということ(その2)

もう少し偶然に関して書いておきたい。{わたくしはなぜ教育の道を志したか}にも書いたが、大学2年の教養課程から3年の専門学部に進学する時の最初の希望は、宗像教授や持田教授のいる「教育行政」学科に出した。ところがそこは文Ⅲからの希望者が定員以上で、理科からの希望の私は無理と判断した。それで希望が多いけれど定員には充ちていない「教育社会学コース」に希望を変更し、3年次に進学した。あの時、第1志望の「教育行政学科」に進学していたら、私はそこの学科の学風に感化され、イデオロギー性の濃い思想の持ち主になっていたように思う。文Ⅲからの進学希望者が多く、「教育行政コース」への進学がかなわなかったという偶然が、私のその後の進路を変えた。教育社会学の研究室は、当時量的な社会調査が重視され、学部3年の「教育社会学調査演習」の授業では、指導教授の松原治郎先生や院生の牧野暢男氏の指導のもと仮説設定から、調査の設計、調査票の作成、調査の実査、データの集計と分析、報告書の作成に多くの時間を割いた。この時の経験が、私のその後の研究の主力を量的調査に向かわせた。もし研究室の雰囲気や指導教授の研究傾向が違っていたら、私の研究も別のものになっていたのではないかと、その偶然にも思いを馳せることがある。

同じ「教育社会学」の講座でも。京都大学の教育社会学研究室の学風が全く違い、政策研究や実証的な研究よりは、理論的、歴史的、文化的(時に文学的)、人間的な研究が主流だったのではないか。そこに進学していたら、私の研究はかなり違うものになっていたであろう(このように、大学でどの学科やゼミに所属するかはその人の思考傾向に大きな影響を与える)。私自身は、京都の学風を作田啓一や多田道太郎、井上俊、竹内洋氏らの文献を読むことでしか知ることが出来なかったが、強いあこがれを感じ続けていた。京都の教育社会学の研究室で学んだ石飛和彦氏(天理大学教授)は、当時の研究室の授業の様子の一端を、氏のブログに書いていている。その箇所を読むと、東大とはかなり授業の内容や雰囲気や学問の継承の仕方が違うことがわかる(転載箇所は、非常勤で授業を担当した社会学者の大村英昭教授のこと)。

<たしか大学院のM2のときに大村英昭先生が集中講義でいらしたんだったと記憶する。ゴフマンの話をされて、たしか落語のような口調とあいまってすごくおもしろかったという印象の記憶があり、また、ゴフマンの邦訳書についていろいろ言っておられたような記憶がある(まぁ翻訳についてというか…「出会い」って何なんだ、とか…)。ジラールの模倣欲望についても話しておられたような覚えもあり、自分はレポートでジラールについてなんか文句を言ったような言わなかったようなM2的イキりを発揮したようなものを書いて提出したような覚えもある。ともあれ、大村先生は、面白くてすごく切れる、恐ろしい先生、という印象なんである。 (中略) また、大村先生が、自殺の例として「いじめ自殺」をあげて、それを、正当にも「愛他主義」(と「宿命主義」)に関連付けているところに共感しつつ、自分も以前そんなことを書いたり学会発表したりしたなあと思い出したりしてた。それはまぁ、世代、ということで、大村先生のものを読み、また集中講義を受け、またそこから自分はエスノメソドロジーのほうに行きたいと思って、じゃあ何をどう考える、とか、また薬師院さんのデュルケーム論を読み、そのうえでデュルケーム=ゴフマン=ガーフィンケルの線で何が考えられるか、みたいなことをぐじゃぐじゃいいつつ大学院生時代を送っていた世代なわけだから、まぁ、この本は、なにか懐かしい、しかしそこから自分はなにか別の一歩を進めようとしていまに至る、みたいな、そういうかんじが、個人的に、したわけである。(以下略)(「粛々と通勤電車で読む『新自殺論』。大村英昭先生の新著。https://k-i-t.hatenablog.com/

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偶然ということ

村上春樹は1949年生まれなので、もう70歳になり、昔を振り返る時が多くあるように思う(若い時からそうだったかどうかは、私にはわからない)。今年の4月に発行された『猫を棄てる』(文藝春秋)の中に、「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけなことなのであるまいか。」(96頁)と書き、偶然に人に出会い少しの接触はあったがそれ以上の関係は選択しなかった人(女性)に関することを、『1人称単数』(文藝春秋、2020.7)の中に多く書いている。そこにはその人との関係を続けていたら、今頃どのようになっていたのであろうかという、偶然への思い(惜別?)も込められているように思う。このように齢をとってくると、昔を思い出し、あの時あのような偶然の選択がなかったら、別の人生があったのではないかという思いが生まれるように思う。

「遊び」の類型の中に、「めまい」「模擬」の他に、「計算」と「運」(偶然)が対局にあったように思う(うろ覚え)。「計算」は、きちんと将来の目標を持ち日々その達成を目指して意識的に努力する態度である(学校などでは奨励されている)。それに対して「運」(偶然)は、目標も持たず意識的な努力もせず、流れ(偶然)に任せる生き方であり、あまり推奨されない。

人の生き方は、未来に目標を持って努力する「計算」が推奨されそれに従う人が多いにしても、それだけでなく、時に「運」(偶然)に身を任せ、時に気晴らしにお酒を飲み(めまい)、映画やドラマを観て(模擬)生活しているのであろう。(ただ、どれが優位かは時代や人による)

「わたくしはなぜ教育の道を志したか」ということ題の原稿を依頼され(「教育展望」9月号)、目標を持って教育学を学んだのではなく、「気がついたら、大学で教育学(教育社会学)を教えるようになっていたというのが正直なところである」と書いた(下記添付参照)。別の選択(偶然)もあったのかと時々考える。

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