社会的地位や金銭に価値はない?

達成動機、加熱(ウォーミング アップ)、立身出世(主義)、アメリカンドリームなど、偉くなろうという気持ちは、現代も若い人々の中に存在するのであろうか。

受験競争が過熱化していた時代は、そのような意識は強く、子どもたちは受験勉強に明け暮れていた時代はあった。受験競争に勝ち抜き、有名大学に入り、一流会社に就職する。年功序列の会社組織の中で、社会的な地位や高い収入が保証される。その競争に負けたものは負け組として過酷な生活を強いられた。

現在も社会的格差や非正規雇用者の悲惨さ、子どもの貧困などが問題視されながらも、高学歴や立身出世を目指す若者は少なくなっているのではないか。 そもそも高い社会的地位、お金持ち、有名ということに価値がなくなっているような気がする。そのようなものより、身近な毎日の生活の中での楽しさ、快適さ、満足度の方が重視されるようになっているような気がする。便利なネット環境、夢中になれる趣味、素敵な出会いといったささやかな喜びに価値が置かれている。

それだけ、日本の社会が豊かになり、野心の冷却(クール・ダウン)装置がはたらき、ギラギラしたものがなくなったということである。(旧世代からみると、今の日本の若者には野心がなく、もの足りないと感じていることであろう)

<上記の文章を敬愛大学の1年生に読んでもらい、「あなたは高い社会的地位や金銭的成功を求めますか」という質問をした。その結果は(回答者39名)「求める」15名(38.4%)、「金銭的成功を求め、社会的地位は求めない」5名(12.8%)、「求めない」19名(48.7%)であった。ただ、「求める」も、人並みのささやかなものであった。

スポーツと人間性

スポーツと人間性には関係があるのであろうか。スポーツによって人間性が鍛えられる、高められるということがあるのであろうか。

「健全な精神は健全な身体に宿る」というの本当だろうか。学校や大学でスポーツばかりやっていても、大丈夫なのであろうか。学校での授業や家での勉強をおろそかにしても、スポーツで鍛えられたものがそれを補ってくれるのであろうか。やはり、学校・大学は勉強や読書で、人間性を高めるところと、教師は考えてしまう。ただ、スポーツの一流選手がその人間性も高く評価され尊敬され、引退後も社会的評価の高い地位(議員やキャスター)に就くのは、スポーツに人間形成機能があるからかもしれないとも思う。

またスポーツの種目によっても、そこで養われる人間性には差があるのであろう。特に個人スポーツと集団スポーツでは形成されるものが違うであろう。個人スポーツでは自分に打ち勝つことが求められ、集団スポーツは自分に打ち勝つだけでなくチームワークが求められる。人を見て、この人がやるスポーツは何、と言い当てることができるような気もする。野球人パーソナリティ(P)、サッカー人P.ゴルフ人P.テニス人P.卓球人P.柔道人P.剣道人P.水泳人P.スキー人P.など。

大人がよくやるゴルフとテニスと卓球の違いを考えることがよくある。 ゴルフは、あれだけ芝生のきれいな広いところでプレイしたらさぞかし健康にいいだろうなと思う一方、この広大な(人工的な)ゴルフ場をつくために、どれだけの自然が破壊されたのかと考えてしまう。その点、卓球はなんと狭いところでやる慎ましいスポーツなのかと気がする。卓球は室内の競技なので、自然のさわやかさを感じることができないのが欠点。テニスは程よい広さで、四季を感じながらプレイできる点はよい。でもかなり足腰を使うので年寄りには少しきつい。 卓球もテニスも人のいないところに球を打つことが多いが、それだと人の裏をかくということで、人が悪くなるところがある。


アマチュアの合唱団の演奏を聴く

昨日(25日)は、JR錦糸町駅近くにある「すみだトリフォ二ーホール」で開かれていた「すみだ音楽祭2019」を聴きに行った。4つのアマチュア合唱団のステージ(それぞれ1時間ずつ)を聴いたが、どれも期待以上の出来で、聴きに来た甲斐があったと思った。

どの合唱団も週一回程度の練習で、プロの指揮者がいて、年齢は50歳代か60歳代が多いという感じである(70歳以上の人もちらほら見られた)。若い頃に、学校や大学で合唱をやっていて、その醍醐味が忘れられず、齢とってからも合唱を続けているという感じの人が多かった。

「女声合唱団シューベルト・コーア」は、51人の多人数で、オーケストラや歌劇の曲を、指揮者・編曲者の吉元貴弘氏が合唱用に編曲した曲を歌い、意欲的な曲編成で、アマチュヤにしては難しいことに取り組んでいるなと感じた。

「ブルーメンコール」は、女声が49名、男声は11名と、混声にしては少し偏った編成だが、男声も遜色なく、宗教曲をしっかり歌っていた。パイプオルガンの荘厳な音も加わり、さながら教会で合唱を聴くような感じであった。

「隅田川合唱団」(混声)は、ここも男声は6人と少なかったが(女声31名)、合唱用のとてもいい編曲の曲を丁寧に歌い、思わず聞き惚れる合唱であった。(アンコールの拍手が少なく、アンコールがなかったのが残念)

「すみだ男声合唱団」は、男声26人の少人数の編成で、年齢も高く、期待をしなかったが、一番感銘を受けた。男声合唱は混声に比べ音域が狭い為、ダイナミズムに欠けるのかと思ったら、とてもきれいで、完成度の高い演奏であった。とりわけ「男声合唱のための組曲<蔵王><両国>」には心打たれた(ただ、ポピュラーな曲の演奏はつまらなかった)。最後の「男声合唱とソプラノ独唱のための落葉松」は、ソプラノ歌手の浦野美香の歌が素晴らしく、それと男声合唱のジョイントは、アマチュアの域を超えていると思った。

音楽は、自分たちで演奏して楽しむ程度の水準と人に聴かせていい水準とがはっきりある区別できるななと感じた。今回、アマチュアながら人に聴かせる域の演奏をいくつか聴きことができラッキーであった。

「江藤淳没後20年」(『新潮』(2019,9月号)を読む

月刊誌の『新潮』(2019,9月号)が、「江藤淳没後20年」という特集を組んでいる。そのうち高橋源一郎「江藤淳になりたかった」と、上野千鶴子「戦後批評の正嫡 江藤淳」の2編には、とても感心した。ともに2019年6月8日と1日に神奈川近代文学館で行われた講演の記録だが、講演でこれだけ内容の濃いことが話せるのかということと、演者の江藤淳への敬愛の気持ちが表れている内容で、心打たれる内容であった。

江藤淳に関して辛辣なことも書かれているが、二人の話の底流には江藤淳への信頼があり、読み終わって、いい読後感であった。また、夏目漱石、吉本隆明、加藤典洋(「江藤の深い影響から出発した」)、内田樹などのことが、話の中でしばしば登場し、共感できる部分が多くあった。

高橋源一郎にしても上野千鶴子にしても、イデオロギー的には江藤淳とは対極にある二人が、江藤淳の批評の卓越性を評価し、その人間性への信頼を語っているのには心動かされるものがあった。

村上春樹は作家と読者の「信用取引」ということを言っているが、(村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』新潮社5)、その「信用取引」(「一生懸命時間をかけて、丹精を込めて僕が書いたものです」という作家の依頼を、「わかりました」と信頼して受け取る関係)も二人の語りに感じることができる。

高橋源一郎の、「一身で二生を経る」(2つの時代を生きる)という指摘(江藤淳は、1932年生まれで、戦前と戦後を生きている)もなるほどと思い、江藤淳に心酔するあまり、若い時に「江藤淳とそっくりの文章を書いていた」という回顧も興味深かった。

上野千鶴子が、江藤淳の『成熟と喪失』には、後のフェニミズム批評やミソジニー(女性嫌悪)の考え方が含まれていたという指摘には、日本の保守的な男性の代表のような江藤淳の批判眼を的確に評価して、さすがだと思った。

私が江藤淳の本を読んだのは『成熟と喪失』な最初で、その後『アメリカと私』「夏目漱石論』などを読み、こんなに鋭利な生き方や見方、豊かな感受性、切れ味のいい文章を書く人が、吉本隆明の他にもいるのだと驚き、その後江藤淳の本は、ほとんど購入して読んだ。武蔵大学在職中、学生が講演に江藤淳を呼びたいといい、私は講演の世話係だったので、江藤淳に依頼の手紙を書き、自宅に電話をかけ、講演当日名刺を交換した。(その名刺には、表は江藤淳とだけあった。肩書のない名刺をもらったのはこの時限り)。

私にとって雲の上の人のような江藤淳に直に会い、感激と緊張のあまり、行動や発言がかなりぎこちなかった(変だった)のか、ゼミの学生から、「(江藤淳の講演の前の)先生の挨拶が一番面白かった」と言われた。


映画「天気の子」を観る

今日は、7歳と5歳の子(孫)と映画「天気の子」を観に行く予定にしていた。ところが、行く間際になって、子どもたちは、「行かない」と言い出した。仕方がなくひとりで映画を観に行くことにした。とにかく話題の映画は見ておかないと、時代に取り残される。特に若者に人気の映画は見ておかないと、若者の心情がわからなくなると思った

「天気の子」を上映している映画館は、JR千葉駅から徒歩10分のところにあり、客席は120席程度の小さな映画館。入りは、4分の1程度で、小学生も少しいたが、主流は高校生の女子。年寄りは私を除き一人もいなかった。以前にジブリの映画を観た時は、いい年の大人がひとりアニメ映画を見るのが恥ずかしくて親戚の小学生5年生の女の子を誘って行ったが、今回はひとりなので、存在をなるべく消すよう、息をひそめて観た。

映画の感想は、映像がきれいということと、退屈せず見ることができたというのが1番の感想。話は単純なので、4~6歳の子どもでも、楽しめるように思う。ジブリの映画のように、いろいろな解釈を考える必要もないので、子どもでもわかる。今の子どもにとって、ジブリの映画の映像は古く、この新海誠監督の「天気の子」の映像の新しさに惹かれるのではないかと感じた。ただ、幼い子どもと年寄りが共に楽しめる映画って、あり得るのかどうかわからない。(以下、ネットの感想を少し掲載しておく。)

「映像はとても綺麗。とくに雨の描写は素敵だった」「前作に引き続き、素晴らしい映像美とRADWIMPSの曲がマッチして、何度見ても鳥肌が立ちます。ストーリーも「君の名は」に引けを取らない。とにかく見てほしい、そんな最高の映画です」「君の名はほど、難しい内容ではないので、小学生が見ても楽しめます」「ストーリーは 君の名は、のように複雑でなく 単純 だ。彼と 彼女の物語 なのだが、 自分自身の内側の 物語 という風に 私は見た」「見知った景色がたくさん出てきて素敵すぎた。最後も感動した。東京も雨も素敵に描いてくれて、心地よい余韻に浸れる」「内面の心理描写に物足りなさを感じた」「音楽も映像もとても良くて。話の内容も個人的には君の名はより天気の子の方が理解出来ました。」「人を強く想う気持ちってこういうことなのかと思わされた」「世界観や絵とは思えない美しい映像は引き込まれます」「何といっても映像描写がダントツに凄い!特に雨。思春期の純粋さと愚かさ、そして怖さが上手く描かれていました」「面白かったけど、ちょっと粗が多い作品だったなぁという感想です。」
https://eiga.com/movie/90444/review/nospoiler/2