老いによる思考力や表現力の衰えについて

今日の朝日新聞の朝刊に池上彰は、14年間続いた「新聞斜め読み」の連載を自ら辞退した理由を次のように書いている。

「仕事の引き際とは、難しいものです。いつまでも働けることはありがたいことです。でも、誰にも老いはやってきます。老いの厄介なところは、自分の思考力や表現力の摩滅に自身は気づきにくいということです。いつの間にか、私のコラムの切れ味が鈍っているのに自身が気づかなくなっているのではないかという恐れから身を引くことにしたのです。いや、そもそも切れ味などなかったと言われるかもしれませんが。」(朝日新聞3月26日朝刊)。

同じようなことを感じることが多い。それは他人のことでも、自分のことでも。これまで凄いなと感心していた人(有名人など)の言動が、「かっての切れ味がなくなっているな」と思うことがある。自分のことでいえば、武蔵大学の時のゼミ生のS氏より、次のようなメールをもらった。

「『教育展望』の2020年9月号の文章を拝見いたしました。教育学の研究者になることになった経緯、その後の履歴がコンパクトにまとめられており、私の知らないことも多々あり、興味深く読ませていただきました。ついでに、最近はあまり覗いていないブログも、久々に訪ねてみました。書きっぷりはあまり変わっていないように思い、健在ぶりを想像することができました」

文字通り取れば、私は変わっていないという評価だが、S氏は教え子なので私に気を遣っているのかもしれない。 池上彰が言うように、齢を取ると、自分の衰えに自分では気が付かないことが多い。 体力や体調の衰えは、自分でもかなりわかるが、知力や表現力などの摩滅は自分では気が付きにくい。 他人から指摘してもらい、自覚するしかない。

桜の季節

桜の季節は、突然来て、アッという間に去って行くような気がする。まだ朝晩は寒くて、ストーブを付けて過ごしていたのに、「東京の桜は開化しました」とニュースで見たと思ったら、千葉でも少し遅れて桜が開化し、2~3日で満開になっている。家の前の小学校の桜も満開で、敬愛大学近くの穴川中央公園の桜も満開で、楽しむことができた。一雨降ると桜も散るのでひと時の楽しみ。。

上田薫の教育論について

自分の専門分野のことでも、自分の不勉強から、知らないことが多い。今回は、教育学者の上田薫に関して、友人からの指摘で、やっとその理論の概要と卓越性を知った。上田薫が始め、今もいい研究&実践論文が掲載されている雑誌『「考える子ども』(社会科の初志をつらぬく会)の2020,11月号を読む機会があり、上からの通達や答申を、教育現場がどのように受け止め実践していくかを、上田氏の教育論をもとに考える研究者や教師の一群がいることを知った。

上田薫の教育論に関しては、乙訓 稔氏が、紹介している論文(「上 田 薫 の 社 会 科 教 育 の 理 念」(実践女子大学 生活科学部紀要第 48 号,2011)を読んだ。印象に残った部分を書き留めておく、優れた研究者の論は、現在も通用するものだとも感じた。

<「地理と歴史の指導では、知識を与えるよりも、根本的な理解を養うことが重要である。知識を教授する場合には、子どもの生きた経験に位置づけ、問題の解決学習とすることが真に子どものものになると考えられる 」「上田における社会科は、児童のよき社会人としての態度と能力とを養うことを意図し、児童の関心を尊重する教科である」「それは従来の秀才教育とは違うすべての児童の個性を見出すことを通じて教師と児童が人間の個性や人格についての価値に目を開かせる教育であり、いわゆる身分や貧富を問わず人格の平等と人間性への尊敬を徹底する教育なのである」「児童の個性を尊重することから、社会科の学習は子どもによっては広さを、また子どもによっては深さのある学習を指導するなかで、社会科の目的とする児童の学習の芽を育み、子どもが社会生活で生かすことのできる能力と態度をつちかい、生活環境における個性的な問題解決をはかることなのである 」「この子どもの心身の発達に応じて児童の生活に基づく「あるもの」としての「問題」と、『学習指導要領』において考えられている社会科の目標として「あるべきもの」である「理解させたい事項」との間に、社会科の学習活動そのものがあるのである」「理解させたい事項は厳密に固定されることなく社会と教育理念との具体的な要求を示す動くものでる」「学習活動のために児童が存在するのではなく、児童のために学習活動が存在しなければならない」」「社会科は倫理的な題目をあらかじめ掲げ、それに児童を引き付けようとする方法をとるのではなく、客観的な題材を追求することによって生じてくる倫理性をみずから児童に獲得させる方法をとらなくてはならない」「それは児童が自発性に基づき、みずらの関心に訴え、自己の体験を通じてのみかちえることを教育の意図としているのである」「社会科の指導原理は、社会科の本質的目的と完全に合致するもので、①子どもの自発活動性を通じて指導すること、②したがって学習は子どもが自分自身の生活で直面する問題の解決を媒介として進めること、③それゆえ学習の対象となるものは現実的、具体的で、また全体的総合的な性格であること、④そしてその学習と指導は題材を固定することなく動的に進め、⑤さらに多くのことを広く浅くふれるよりも、一つのことを深く自然に広がるようにするという、五つの方法原理が考えられているのである。」

上田薫教授の教え子のひとりの友人から、コメントをいただいた。一部転載させていただく。

<上田先生の門下生は多いです。裾野は広く社会科教育、教育哲学分野では教え子がたくさんいます。その上田節と「動的相対主義」を巡る議論はいまでも語りぐさになっています。(上田先生は)安東小学校の実践にかかわる「安東魂」に言及しています。「安東の教師たちが教育技術にたけていると、わたくしは言わない。教材研究にたんのうだとも、わたしは言わない。ただ子どもを人間として見ること、知ることについては、たとえ若輩でも他校のベテランにひけはとらないのである。教育の本道は子どもを変えることだ。そのためには子どもを人間として深く知ることだ。教材研究もテクニックのくふうもその上にしか生きないし、成り立たない。馬鹿の一つおぼえのように、そう信じこんできたことが今日の安東をつくった。新卒だって必死になって子どもをとらえれば、その子たちを具体的には知らぬ教材の権威、技術の権威とは対等以上に勝負できる。そもそも目標の設定も教材の研究も、ひとりひとりの子どもごとにやるべきではないか。保守も革新も要するに教育は画一だと考え、基礎とか共通性とか最低必要量とか、自己満足的なことを叫んでいるなかを、安東の教師たちはまことに素直にそれと正反対の 声に耳を傾け、心を傾けつづけてきたのであった。そしていま、不思議としかいいようのない安東の子どもたちが生まれている」(上田薫、みずからを変える力ー教育の変革を求めて、132頁、黎明書房、昭和52年)。(私は)「生きた授業を成立させるための観点」-三原則・三方策・六つの具体策・六つの問いかけーを始めて知ったとき、まさに眼から鱗が落ちるほどの衝撃でした。その三原則と三方策を以下に紹介します。「三原則:1計画はかならず破られ修正されなくてはならない 2正解はつねに複数である 3空白を生かしてこそ理解は充実する。 三方策:1迷わせ、わからなくしてやること 2教えないこと、すくなくしか教えないこと 3教科のわくにとらわれぬこと、授業時間にこだわらぬこと(以下略)」 いまでも学生指導の内的実践的理念として私が抱いているのは《三方策:迷わせ、わからなくしてやること》です。いまでも上田先生の声がわたしの耳元で囁く。【考えてみるがよい。教師は生きた人間であるにもかかわらず、自分を不動の存在だとむぞうさに 前提してしまってはいないか。子どもは変化するという。変化させうるという。しかし教師は変化しないのか。変化しえないのか。】

今日の検見川浜

千葉県も緊急事態宣言が継続しており、毎日の感染者も100人を超える日が多く、今は外出も外食も避け、自粛するしかない。毎日曜日に小学校の体育館でやっていた卓球愛好会の練習も休止になっている。密でない、近くの散歩は許されるであろう。今日は海側の検見川浜に行く(車で15分)。天気の良い中、海の近くの公園では、幼い子どもたちがストライダーのレースをやっていて楽しそう。海辺の結婚式場の大きな窓には花嫁さんの白いウエディングドレスが映えていた。海は風が強く、絶好のウインド・サーフイン日和。強い風を受け、30艘くらいが波間を疾走していた。雪をかぶった白い富士山も遠くに見えた。久しぶりにキャバリヤ犬も見た。

3.11に思う

3,11の東日本大地震から10年が経過し、テレビや新聞の報道を多く見る機会があった。その感想を記しておく。① 津波が襲う映像や写真を見て、津波の恐ろしさを改めて認識。地震や津波に備えなくてはと気持ちを新たにする。同時に、自分は安全な場にいて地震や津波の映像を見るのは、どこか虚構の映画を観ているようで現実感が薄れていく。気を付けねば。② 津波から一早く高台に逃げて全員の児童が助かった釜石の小中学校と、大人の責任で多くの児童が犠牲になった大川小学校の対比は忘れられない。後者は、日本の学校の形式主義、集団主義、上位下達、保身主義の犠牲としか思えない。大川小学校の例はあまりに悲惨でありやるせないが,そこからから学ぶべきことは多い(下記参照)。③ 福島原発の廃炉が進まず、地元に帰れない避難者も多くいる。それらを忘れ、原発問題が風化しているのが気になる。

東北への支援を続けている敬愛大学では、2月20日に大川小学校に通っていた娘を亡くした語り部の佐藤敏郎氏の「東日本大震災から学ぶ私たちの未来 ~満10年を迎える東北の被災地に私たちが学ぶべきこと」という講演会を開催している。私もWEBであるが、視聴した。とても心打たれる講演会でいろいろなことを学んだ。

https://www.u-keiai.ac.jp/keiai-topics/shinsai10lecture/

佐藤敏郎氏が代表で作った「小さな命の意味を考える」(https://smart-supply.org/img/store/chiisanainochi/chiisana_inochi_2.pdf)という冊子に、震災当日の子どもたちの様子、保護者の無念さ、その後の教育委員会の対応、「大川小学校事故検証委員会」や教育委員会がいかに保身に走っているのかがわかり、子どもを亡くした保護者の怒りと無念さが痛いほど伝わってくる。「事故検証委員会」の報告は客観性が乏しいだけでなく、これでは犠牲になった子どもたちの魂は救われない。それらを指摘したこの冊子(「小さな命の意味を考える」)は、教育関係者が心して読むべきものと思った。