ジャーナリストとしての藤原新也

藤原新也の本を最初に読んだのは、『アメリカ』。アメリカを10ヵ月かけて車で回った旅行記(写真付き)。その後、『印度放浪』『逍遙游記』『全東洋街道』『メメント・モリ』などのインド関係の旅行記を読む。アジアの視点から見た『東京漂流』の斬新さに衝撃を受ける。

写真集、評論の他、小説も書いていて、藤原新也は、幅広い人だと思っていたが、下記の文章を読むと、ジャーナリストではないかという気もしてきた。

<昔こういう難題を持ち出した人がいた。農民は日々額に汗し畑を耕し、作物をつくり人々に提供している。だがもの書きは机上で無形な言葉を編んでいるだけではないか。

私はそれに対し、作家も農民も同じこと、作家もまた日々額に汗し畑を耕し、言葉のポテトを収穫し、人々に提供しているのだ。と述べている。

いったいに無形のものを軽んじるという傾向はどこの世界もにあり、とくに危険な国に行って取材をするジャーナリストの自己責任を問う声は多い。確かにそのジャーナリストも人間であり玉石混交、いかさまもいるだろうし、信念を持つ者もいるだろう。そしてこの論考の俎上にはいかさま者を当然除外している。

その上において言うならジャーナリストの収穫するポテトとは事実と真実を実際の現場で見極め、広く報告することである。そしてそれは人間が生きて行く上において必要な”食料”なのである。

このネット情報化社会である今の世の中は、その二次情報三次情報の多くは操作されたもの、あるいは根拠のない憶測から生まれたものとみなしてよいだろう。

今でなくともナチスの情報操作に踊らされたドイツ民族の所業とユダヤ人の末路というものを私たちは知っている。そういう意味では情報化社会において人々が烏合の衆となりつつある今の世界の現状は危ういと私個人は感じている。

そんな状況の中においていかに事実を見極めるか、それを果たすには実際の現場に行き、一次情報に触れ、それを発信する方法はひとつの有効な手段であり、また必要不可欠なことである。ジャーナリストにはそういう役割があるということを知ってほしいのだ。そして彼らも農民同様、額に汗し、時には自分の命を世界に曝し、知恵のポテトを耕し、それを売り、自からの生活費(けっして儲かる仕事ではない)としている。

私が先般香港のデモ騒乱に行って200点もの写真とコメントをこのCatwalkサイトで展開したのもまったく同じことだ。あの現場に行って実際にこの肉眼で見たからこそ、百万の二次情報三次情報を越えたリアリティと事実を皆さんの前にお伝えすることが出来た。

そして今回の香港事象はたまたま他国事であり、日本における311の原発事故時の虚偽発表のように直接私たちの生活を左右するものではないが、おそらく今後この情報化社会において秘密保護法のもと事実を知らされぬがゆえに日本人が死線をさまようという局面もないとは決して言えない時代なのである。>(shinya talk    2015/01/29からの転載)

山と海とどちらが好き?

山と海とどちらが好きか聞かれたら、当然海と答えたい。

私は、島(佐渡)で生まれ、海の近く(千葉・稲毛)で幼少期を過ごしたので、空気中に一定程度の塩分が含まれていないと、精神錯乱を起こす(?)。

とは言っても、ここのところの蒸し暑さにはヘキヘキする。さらに、昨日外房の御宿に久しぶりに行き、御宿がこんなに湿度が高く、蒸し暑かったのかと驚き、海嫌いになりかけた。

昔夏に行った軽井沢の高原のさわやかさを思い出し、夏は海より山の方がいいな、と思ったりしている。(でも、写真でも見て、海(御宿)のよさを思い出そう)

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大学のゼミでの会話、私語

教室での私語というのは大人数の大教室で起こることが多く、少人数の教室や少人数のゼミでは起こることは少ない。

但し、少人数のゼミでも私語が多くて困ることがある。それは私語を許す教員に問題がある場合が多い。

ゼミで、講義者や発表者の発言にきちんと耳を傾け、それへの共感や反論や発展的な議論を展開する技法を身に付をけることは、将来の就職試験での集団面接や就職後の会議に役立つことを学生に伝え、その訓練を厳しくする必要がある。それを怠ると、ゼミでも私語は起こる。ーこれは正論であろう。しかし、それ以外に、学生の会話の特性にもよるような気がする。

学生達の集団での会話を聞いていると、お笑いタレントのバライエティ番組の会話のようである。学生の会話にはいろいろな突っ込みが入り、笑いに満ちている。

敬愛の1年生のゼミで、各自15分くらいの持ち時間で好きなことを話してもらったことがある。私の想定では、最初にスピーカーが10分程度まとまった話をして、その後5分程度の質疑が行われるものと考えた。

ところが、実際は、話し手の少しの発言に、突込みが入り、その受け答えで話しが盛り上がり、大変にぎやかな会話の場となるのが常であった。誰かの話を静かに聞くというのは、学生達にとってそんな居心地のよいものではなく、わいわい言いながら、人の話を聞くのが自然状態に近いのではないかと思った。

人の話を静かに聞き、それに質問や反論するという討論や会議のルールを身に付けさせる場が、大学のゼミであろう。しかし、その方法を強要すると、ゼミは発表者と教員とのやり取りだけで終わってしまい、不活発なものになることも多い。学生の会話の特性を生かした、ゼミができないものかと苦労する。

 

 

 

「意欲のない」子ども・青年について

「学校教育と無気力な子ども」という1993年の『児童心理』に書いた私の文章を今の学生も読んでくれて(学生のレポート)、「子どもの無気力は、今の社会への賢い適応」「青年期になると、大人の目の触れないところで生き生きしている」という文章などに、共感してくれることが多い。

 しかし、若者や子どもの意欲や無気力について、もっと以前に、漱石が鋭いことを言っている。フリーターの走りと言われる(?)「それから」の代助の言い分を、改めて今日の新聞で読み、感心する。 

<彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だといわれていた。彼の解剖によると、事実はこうであった。――人間は熱誠を以て当ってしかるべきほどに、高尚な、真摯(しんし)な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、しからざれば、熱誠を衒(てら)って、己(おの)れを高くする山師(やまし)に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とはいえまいが、よりよく人間を解剖した結果には外(ほか)ならなかった。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、そのあまりに、狡黠(ずる)くって、不真面目で、大抵は虚偽を含んでいるのを知っているから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかったのである。と、彼は断然信じていた。>(「それから」朝日新聞、727日)

 

 

 

 

異変を感じる=空気を読む

今の子ども(学生も含む)は、「空気を読む」のがたけているのかしれない。

それを学生のレポートから教えられた。そのレポートは、私の私語論(「現代学生と私語」IDE,1991 年、『学生文化・生徒文化の社会学』第2章)を上手に要約し、そのコメントの中で、子どもは「異変」を感じると、私語をやめ静かになる、と書いている。その「異変」を感じることこそ、「空気を読む」ことのように感じる。 

武内の私語論の要約

<私語を交わす学生には私語がストレス解消やコミュニケーションになると考えている人、たとえ授業中に友人と話していたとしても大事なところだけは聞き取るマルチ人間タイプの人、私語は禁じられているからこそ楽しいと考える人、そして授業中でしか私語を交わす場がないと感じている人の4つのタイプがある。そしてその私語の内容は授業に関連していることから、そうではないことまでジャンルは様々である。中には、授業をしっかりと聞いている間に、自分の興味とは合わず退屈に感じ私語につながるケースもある。だが、私語がないからと言ってその授業が学生のためになっているかと言えば決してそうではない。私語がない授業では、居眠りをしていたり内職をしていたり、と違うことに夢中になっている学生も多くいる。そしてもし担当教員が私語を厳しく禁止するような人であれば、学生はストレスにさらされる。また、日本に強く根付いている授業スタイル、すなわち教師一人が大勢に向かって一方的に話すという授業方法も私語を招く要因になっている。また「大学」という教育の場では学生が不本意に授業に参加しなくてはならないものもあり、さらに人数が多いほど学生ひとりひとりの匿名性が高まり、学生は自分の名も知らぬ人に礼儀を尽くす必要を感じていない。このように私語を発生させる原因は多様にあるが、現在の大学において私語が発生するのは必然であり、私語をヒントとして講義のあるべき姿を再検討していくことが必要である。>

コメント(一部抜粋)

 <私も塾講師として「私語」について悩んでいるため、この章をなにか複雑な気持ちで読んだ。私自身、あまり私語をする立場ではないが、中には私語を叱責する教授もいる。その場合、やはり学生側も何か「異変」を感じて静かになる。私も塾講師として叱責することはないが、あまりにも私語がひどい場合、無言でひたすら板書をする。そうすると生徒たちは私から「異変」を感じ取り、静かになる。>