季節の花(その9)

今年は、花の季節が早まっているような気がする。近所を散歩すると、家の庭や道端にアジサイ(紫陽花)の花が咲き始めている。それでたくさんのアジサイを見たいと、ネットで調べた。千葉県でもアジサイの綺麗なところがいくつかあがっていた。

一番有名なのは、茂原の服部農園(https://www.mobara-kankou.com/search/enjoy/129.html)で、250種、1万本以上のアジサイで、絢爛らしいが、開園は6月1日からとある。電話して確かめたが、明日からとのこと。

そこで成田の先の多古町に行く。家から車で50分ほど。途中道に迷い成田空港の中に入り込み、多古町を目指した。多古町の道の駅に行くと、そばの栗山川の川べりに沿ってアジサイが植えてあり(1万株)、遊歩道になっている。遊歩道の芝生が綺麗で感心したが、どうも除草剤を撒いているよう。そばのアジサイの葉に元気がない。花もまだ3分咲きくらい。橋を渡り川の対岸に行くと、芝生がなく雑草が生え放題だが、その分アジサイの葉や花も元気で、5分咲きくらいであった。その反対側は、水田が広がりのんびりした田園風景(多古米で有名)。さらに近くの日蓮宗の日本寺に寄ったら、そこは鎌倉のアジサイ寺に負けないほどのいろいろな種類のアジサイが咲いていて、楽しめた。なかなか趣のあるお寺で、来た甲斐があった。帰りは途中、成田の三里塚を通った。昔の激しかった成田闘争のことを思い出した。

教育のデジタル化について

新型コロナ禍の中で、小中高校でも教育のデジタル化が前倒しで進められようとしている。これまでの紙の教科書、黒板とチョークを使った教室での一斉授業から、デジタル教科書、電子黒板やタブレットを使った個別教育への転換である。社会のデジタル化の進行に合わせて教育のデジタル化は必然であるにしても、その推進が、教育の論理ではなく経済や産業界の論理で、教育関係者ではなく経済関係者によって進められていることが危惧される。文部科学省の有識者会議のメンバーやその議論も、教育色が強いかどうか疑問である。

一昨日(5月28日)の朝日新聞には、教育デジタル化に関する文部大臣の談話が載っていた(添付)。それによると、少しは教育の論理で経済産業省の意向を押し返していることが伺える。同じ日の新聞(デジタル版)に教育学者の佐藤学・東京大学名誉の教育のデジタル化に関する意見も掲載されていた。それは、教育関係者の意見を代弁しているようで感心した。佐藤教授の意見の一部を下記に転載する。(朝日新聞 5月21日、デジタル版より一部転載)

 <「PC1人1台で学力低下? 「最低レベル」日本を救う道―実は、ICT教育によって学力が上がるという研究結果はほとんどありません。/ 「学校でパソコンを全く使わないよりは、適度に使った生徒の方が成績はいいのですが、使う時間が長くなればなるほど読解力も数学の学力の点数も下がっています。/ 「PISAテストを中心的に担ってきたOECD(経済協力開発機構)のアンドレアス・シュライヒャー教育・スキル局長は、コンピューターは情報や知識の獲得や、浅い理解には有効だが、その知識や情報を活用する深い思考や探究的な学びにはつながらないと解釈しています」/  「ICT教育によって学習の進度は上がるかもしれないし、定着度も上がるかもしれません。しかし、先生と子どもの情動的・社会的関係が崩れると、マイナス要因の方が大きくなってしまう可能性もあります」/ 「コンピューターの活用には二つの流れがあります。一つは、行動心理学者のバラス・スキナーがティーチングマシンで提唱した、刺激と反応によりすべての学習がコントロールできるという考え方です。AかBかを選び、正解すると次の問題に進むというプログラム学習です。今の日本のICT教育の多くがこのモデルですが、この方法は学習心理学としては古い方式で、短期記憶しか残りません」/ 「もう一つは、コンピューター科学者のアラン・ケイや、MITメディアラボが提唱するような、子どもたちが自発的に知識を構成したり、活用して思考したり表現することを促すソフトです。知識を教えるのではなく、思考と表現のツールとしてコンピューターを活用する方法ですが、残念ながら市場に普及しにくいのが現実です」/企業だけにソフト開発を任せてはダメ/ 「企業に開発を任せるだけでは、市場競争に流れますから、いいものはできません。文部科学省が大学に委託研究として開発予算を出せば、いいコンテンツとソフトが出てくると思います」/ 「日本の教育委員会や教師は、まじめでしっかりしています。10万円の予算をつけたら、30万円ぐらいの働きをしてくれる。だからきちんと態勢をつくれば、相応のことをしてくれます」/ 文科省が1人1台の方針を示したGIGAスクール構想のペーパーを読む限り、『個別最適化』にしてもデジタル教科書にしても、昔の授業のスタイルにとらわれています。20~30年前のコンピューター教育ですよ」/「僕は思いきって、子どもたちに自由に使わせる場を設定してあげるのがいいと思います。ある学校では、昨年9月に子どもたちにタブレット端末を配布しました。1カ月後に見にいくと、みな、簡単な動画をつくるなど上手に使っているのでびっくりしました。担任の先生に『使い方を教えたの?』と聞くと『いやいや、子どもたちは自由に教え合っている。みんな、僕を抜きました』と。コンピューターを教える道具として使うのではなく、子どもたちが文房具の一つぐらいになじむようになれば、ICT教育はうまくいくと思います」>(朝日新聞、5月28日)

(追記)デジタル教科書に関して、昔書いた新聞記事も再掲しておく。

分散(3部)運動会

 新型コロナ禍が終焉しない中、学校は休校になっていないが、学校も子どもたちの密を避けるために、いろいろ工夫しているようだ。

 うちの近くの小学校では今日(5月29日)は春の運動会。土曜日の開催では、多くの親が見に来ると思うが、それを避けるために、時間差で学年を3つに分けた運動会が開催される。「保護者の観覧は、自分の子どもの学年のみ、一家族2名まで」とある。

その学年の分け方が面白い。第1部 2・4年生 8時40分~、第2部 1・6年生 10時30分~ 、第3部 3・5年生 12時40分~ 。それぞれの学年の子どもの出番は、徒競走(かけっこ)の他は、表現(ダンス)が1つだけ。児童への「やくそく」として。「応援席では、友達とはなれて座り、おしゃべりはしません」「応援は、拍手でしましょう」とある。学校の先生たちの細かい配慮に感心する。

(追記) 少し見学に行ったが、親もかなり来ていて、いつもの運動会と変わらず、楽しそうであった。

暇について

同世代の友人と、メールで近況などを報告し合っている中で、「暇って何」ということが話題になった。友人は、実直な人で、暇については、「人生に無駄なことは一つもない」「何もしない時間にも意味はある」「勤勉さや真面目さの結果として得られる暇は人生の果実・ご褒美」など、その素直で穏やかな人柄を表す意見を送ってくれた。

「武内さんは暇の哲学についてどう考えます?」と聞かれ、私は、その質問の核心には触れられず、その周囲のことを、あれこれ述べるだけで終わってしまった。よく家人から「あなたは、質問にはまともに答えないで、関係のない話ばかりする」と叱られる。自分ではまともに答えているつもりが、このずらして答える習性はなかなか治らない。下記のようなメールを送った。(一部転載)

私は、哲学は苦手で、暇についても、哲学的な考察は全くできません。でも、文化的な考察は好きで、京都学派の人(多田道太郎、作田啓一、井上俊など)の本は、よく読みました。そこには、暇や怠惰についての考察がたくさんありました。/ 確か、働かず何もしないでぶらぶらしている若者に、年寄りが「なぜ働かないのか?」と聞いたら、その若者は「働くといいことありますか?」と質問し、年寄りは「お金がたまり好きなことやのんびりできる」と答えると、その若者は「もう好きなこと、のんびりしています」と答えた、という話を、多田道太郎が書いていました。/ 関東と関西の学問の学風は違うと思います。関東は役立つことをして、関西は暇や楽しいことを大切にするように思います。昔私は京都大学の作田啓一に心酔していて「とても素晴らしい」とよく言ったものですから、研究室の清水義弘先生が、仕方なく少し読んでくれたことがあります。それで感想は「タコつぼの中で何かやっているようなもの」と苦々しく言われたのを今も覚えています。清水先生のように、時の教育に役立つ政策的なことを考えている東大教授から見たら、京都学派は、遊んでいるとしか見えなかったのだと思います。/ 暇に関しては、社会階層も関係していると思います。食べるために暇なく働き続けてきた親を見て育った中以下の階層の子どもは、勤勉という価値を内面化し、暇にすると罪悪感をいだくのではないでしょうか。また世代も関係し、若い世代は、余裕のある贅沢な生活が当たり前で、働くより暇にして好きなことをすることに価値や生きがいを感じているように思います。/ 職業による違いもあるかもしれません。 私はこの頃、暇で、テニスや卓球をよくするのですが、退職したとはいえ、大学の教師たるもの、時間があれば、研究したり、本を読んだりするのが当たり前であろうという意識は少し残っていて、平日テニスや卓球をしていると後ろめたさを感じます。これは、遊びではなく、健康維持のための運動であると、言い訳は用意しているのですが。/ ここまで書いて、今思い出したのですが、大学院時代授業を受講した副田義也先生の「嗚呼・花の応援団の研究」で指摘されていたこと(「時間の浪費の制度化」)を思い出しました。社会学にこんな面白い見方があるのかと。(下記にそのことを書いた過去のブログを転載)(以下略)。

 <教え子の研究者から、「ブログを書く人は暇な人ですよ。先生もブログを頻繁に更新するなんて、暇ですね。(そんな暇があったら、少し研究をしたらどうですか)(括弧のことまで言わなかったが、そのようなニアンスを感じた)」と言われた。「(こんな)ブログを読む人もいるのですか。その人も暇ですね」という声も聞こえてくる。それでも性懲りもなく、ブログを更新する。とにかく暇だから。人生で暇ほど困るものはない。

 昔、社会学者の副田義也先生が、遊んでばかりいる大学生でも大学に通う意味はあって、もし彼らが大学に入学せず、社会に出てしまったら、どのような犯罪を犯すかもわからない。大学は、「時間の浪費の制度化」をしているところあって、退屈で時間を持て余す若者の、犯罪防止制度としての十分機能している。/そのような趣旨の考察を、マンガ『嗚呼・花の応援団』の分析でしていた(『遊びの社会学』)/ その中でも言及されていたが、退職した老人が多くなって、そのまま放置しておいたら、不良老人たちが何をしでかすかわからない。卓球でも、絵でもいいが、さらに害のない「ブログ」を書かせたり、読ませたりさせておけば、社会への不満や批判に目がいかず、今の社会(体制)は安泰である。/私のブログは、そのような社会の安全弁機能、社会体制維持機能を果たしているのかもしれない。(ただ、読者は少ないし、そんな影響はないのだから、所詮この議論も、暇つぶし)>( [暇をもて余す](2012年9月12日)

季節の花(その8)

今年は、季節が早く巡ってきているような気がする。関東でも5月中旬から梅雨のような天気で雨や曇りの日が多い。通常は5月の下旬から6月に開花するバラも、そろそろ終わりの時期を迎えている。昨日(23日)は、久しぶりに晴れたので、稲毛海浜公園に散歩に行った。ただ、着いたのは夕方の5時を過ぎていたので「花の美術館」も閉まっていて、いろいろな花も見ることができず、周辺の花と緑を見るだけであった。人はまばらであったが、外国人が多いのは驚いた(日本人は夕方には早く家に帰り、外国人は遅くまで外で楽しむ習性があるのかもしれない)今の日の入りはかなり遅くなっているので、夕日とかすかに見える富士山を眺め、コロナ禍の疲れを取った。