暇について

同世代の友人と、メールで近況などを報告し合っている中で、「暇って何」ということが話題になった。友人は、実直な人で、暇については、「人生に無駄なことは一つもない」「何もしない時間にも意味はある」「勤勉さや真面目さの結果として得られる暇は人生の果実・ご褒美」など、その素直で穏やかな人柄を表す意見を送ってくれた。

「武内さんは暇の哲学についてどう考えます?」と聞かれ、私は、その質問の核心には触れられず、その周囲のことを、あれこれ述べるだけで終わってしまった。よく家人から「あなたは、質問にはまともに答えないで、関係のない話ばかりする」と叱られる。自分ではまともに答えているつもりが、このずらして答える習性はなかなか治らない。下記のようなメールを送った。(一部転載)

私は、哲学は苦手で、暇についても、哲学的な考察は全くできません。でも、文化的な考察は好きで、京都学派の人(多田道太郎、作田啓一、井上俊など)の本は、よく読みました。そこには、暇や怠惰についての考察がたくさんありました。/ 確か、働かず何もしないでぶらぶらしている若者に、年寄りが「なぜ働かないのか?」と聞いたら、その若者は「働くといいことありますか?」と質問し、年寄りは「お金がたまり好きなことやのんびりできる」と答えると、その若者は「もう好きなこと、のんびりしています」と答えた、という話を、多田道太郎が書いていました。/ 関東と関西の学問の学風は違うと思います。関東は役立つことをして、関西は暇や楽しいことを大切にするように思います。昔私は京都大学の作田啓一に心酔していて「とても素晴らしい」とよく言ったものですから、研究室の清水義弘先生が、仕方なく少し読んでくれたことがあります。それで感想は「タコつぼの中で何かやっているようなもの」と苦々しく言われたのを今も覚えています。清水先生のように、時の教育に役立つ政策的なことを考えている東大教授から見たら、京都学派は、遊んでいるとしか見えなかったのだと思います。/ 暇に関しては、社会階層も関係していると思います。食べるために暇なく働き続けてきた親を見て育った中以下の階層の子どもは、勤勉という価値を内面化し、暇にすると罪悪感をいだくのではないでしょうか。また世代も関係し、若い世代は、余裕のある贅沢な生活が当たり前で、働くより暇にして好きなことをすることに価値や生きがいを感じているように思います。/ 職業による違いもあるかもしれません。 私はこの頃、暇で、テニスや卓球をよくするのですが、退職したとはいえ、大学の教師たるもの、時間があれば、研究したり、本を読んだりするのが当たり前であろうという意識は少し残っていて、平日テニスや卓球をしていると後ろめたさを感じます。これは、遊びではなく、健康維持のための運動であると、言い訳は用意しているのですが。/ ここまで書いて、今思い出したのですが、大学院時代授業を受講した副田義也先生の「嗚呼・花の応援団の研究」で指摘されていたこと(「時間の浪費の制度化」)を思い出しました。社会学にこんな面白い見方があるのかと。(下記にそのことを書いた過去のブログを転載)(以下略)。

 <教え子の研究者から、「ブログを書く人は暇な人ですよ。先生もブログを頻繁に更新するなんて、暇ですね。(そんな暇があったら、少し研究をしたらどうですか)(括弧のことまで言わなかったが、そのようなニアンスを感じた)」と言われた。「(こんな)ブログを読む人もいるのですか。その人も暇ですね」という声も聞こえてくる。それでも性懲りもなく、ブログを更新する。とにかく暇だから。人生で暇ほど困るものはない。

 昔、社会学者の副田義也先生が、遊んでばかりいる大学生でも大学に通う意味はあって、もし彼らが大学に入学せず、社会に出てしまったら、どのような犯罪を犯すかもわからない。大学は、「時間の浪費の制度化」をしているところあって、退屈で時間を持て余す若者の、犯罪防止制度としての十分機能している。/そのような趣旨の考察を、マンガ『嗚呼・花の応援団』の分析でしていた(『遊びの社会学』)/ その中でも言及されていたが、退職した老人が多くなって、そのまま放置しておいたら、不良老人たちが何をしでかすかわからない。卓球でも、絵でもいいが、さらに害のない「ブログ」を書かせたり、読ませたりさせておけば、社会への不満や批判に目がいかず、今の社会(体制)は安泰である。/私のブログは、そのような社会の安全弁機能、社会体制維持機能を果たしているのかもしれない。(ただ、読者は少ないし、そんな影響はないのだから、所詮この議論も、暇つぶし)>( [暇をもて余す](2012年9月12日)