テレビ・ドラマを観る

齢をとって毎日が日曜日のようになると、何かで曜日や時間の節目を付けようとする。私の場合、火曜日のテニスのクラス、土日の卓球同好会の練習というのもあるが、スポーツは天気や場所や体調の都合でできないことがある。その点、テレビ観賞は変更がない。それで、最近はテレビドラマの観賞で生活のリズムを作ることが多い。今は、NHKドラマで、「まんぷく」(平日、土曜8時~)「いだてん」(日曜20時~)「トクサツガガガ」(金22時~)を見ている。

「トクサツガガガ」について今回書いておく。面白いなと思う回と退屈な回があり、NHKのドラマの中では特に優れたドラマでないのかもしれない。しかし次のような点に惹かれて見てしまう。1「隠れオタク」を扱った設定 2 新人のヒロイン・小芝 風花の魅力 3 挿入歌 4 母親と娘との葛藤 。                          特に最後の母親との葛藤で、ヒロインがこれまで自分の好きなもの(そしてその人格)を罵倒してきた母親に対して「これまでの自分の養育・教育にかかった費用を返す」とまで言い返し、母親を突き放す場面があり、親子とは何かを考えさせられるドラマでもある。(以下、番組HPより一部転載)

<ものがたり;商社勤めのOL・仲村 叶(小芝風花)は特撮をこよなく愛する隠れオタク。仲村の母親(松下由樹)は、女の子らしさを好み、特撮のことを嫌っている。それゆえ母はもちろん、職場の同僚たちにも特撮オタクであることは一切秘密だ。そんな仲村は日々の生活の中でさまざまなピンチに陥る。「ど、どうすれば…」。すると、突然、仲村の脳内が特撮モードに切り替わり、彼女にしか見えない特撮ヒーローが現れ、彼らの言葉に勇気づけられた仲村は、次々にピンチを切り抜けていく。そして、特撮オタクの先輩・吉田さん(倉科カナ)や同僚・北代さん(木南晴夏)、小学生の男の子・ダミアン(寺田 心)、コワモテ・任侠さん(竹内まなぶ)など、新しい仲間と出会い友情を育み、特撮オタクOLとしてパワーアップしていく。日常生活で直面する「あるある!」な壁に葛藤しつつも前向きに奮闘する仲村の姿を描くコメディードラマ。>

<製作者の言葉:原作者の丹羽さんから聞いた言葉「人はすべてが分かり合えるものではない。好きになれるところまで、その人と距離をとる(近づかない)」。今回のドラマ制作の過程で、私がもっとも目からウロコが落ちた言葉です。仲村さんをはじめ、吉田さん北代さんはお互いを知ることで距離が近づきます。しかし、決してベタベタした関係にはなりません。相手のことを根掘り葉掘り聞いたり、相手を変えようと行動したり、相手の価値観に踏み込んだりしない。(それゆえお母ちゃんが厄介なのです)今の若い人は、そんな考えで生きているのかもしれないと思いました。多くの若い人たちに共感してドラマを見てもらえたらサイコーです!>https://www.nhk.or.jp/nagoya/gagaga/

頼朝桜(河津桜)を見に行く

桜は、入学式の頃に咲く花(ソメイヨシノ)がメインと思っていたので、それ以外の桜を見に行くことをこれまでしたことがない。今日(22日)はたまたま近所の友人に誘われて、(12月末に水仙の花を見に行った)南房総の佐久間ダムに「頼朝桜」(河津桜)を見に行った。それは早咲きの桜で、桃色でなかなか華やかな花であった。ネットで、「河津桜」と「頼朝桜」を調べてみると、下記のような記述があった。知らないことが多い。

<カワヅザクラ(河津桜)は、日本にあるサクラの一種である。オオシマザクラとカンヒザクラ の自然交雑種であると推定されている。1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜である。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃い。また花期が1ヶ月と長い。 1955年に静岡県賀茂郡河津町田中の飯田勝美が河津川沿いの雑草の中で1mほどの原木を偶然発見し、庭先に植えたことが由来である。1974年に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され河津町の木に指定された。>(https://ja.wikipedia.org/wiki/カワヅザクラ

<(千葉県)鋸南町では石橋山の戦いに敗れ、小舟で逃れた源頼朝が竜島海岸に上陸し、再起を図ったという歴史的事実にちなみ、河津桜に『頼朝桜』との愛称をつけ、住民相互の親睦を深め、地区コミュニティの推進を図りながら町を日本一の桜の名所とすべく町民一丸となって植樹に取り組んでいます。>(頼朝桜 https://www.youtube.com/watch?v=6PLwMe3CaqI)


教育社会学の目指すもの

学校の授業の時間や活動と授業以外のそれ(時間や活動)との関係をどのように考えればいいのであろうか。授業は、①教材、②教師、③教室、④児童・生徒といった学校教育を構成する主要な4要素が皆入った場で行われることなので、学校教育の中核で一番重要な場であることは間違いない。したがって教育学の研究で、授業研究、教科教育が主流を占めることに異論はない。ただ、「授業研究、教科研究の視点をもたない教育学の研究は意味がない」とまで言われると、それは違うと言わざるを得ない。

内にいては見えず、外からなら見えることがある。中にいては囚われて自由な発想ができないことが、外からは自由に考えることができることがある。また、「潜在的カリキュラム」という言葉を持ち出すまでもなく、児童・生徒が学校で学ぶことは、教師が教え導く授業の場だけでなく、学校生活全体からや教師が意図しないことからも学ぶことが多い。小中高大と長い学校生活の何から学んだんだろうと考えてみても、授業や講義から学んだという思いや意識は少ないのではないか。授業や講義には関係しているかもしれないが、自分で興味をもって調べたり本を読んだりして心に残っていることの方がはるかに大きいように思う。

教育学の中でも後発の教育社会学は、教育学が授業(教授、教科)を中心に研究していたのに対して、その外側の環境(地域、階層、文化等)に目を向けて、それとの関係で学校の教育を考えてきた。それで教育学の研究が主観やイデオロギーを離れて客観性を増し飛躍的にすすんだ。ただ教育社会学もその研究の視点を段々外から中に向けている。戦後初期に教育社会学研究を発展させた清水義弘先生は、教育社会学は学校というお城の外堀(地域や階層)を埋め、最後に目指すものは天守閣(カリキュラム)だといういい方をされていた。

小林雅之氏の最終講義の案内

私が大学の助手就任1年目に、駒場より教育社会学コースに進学してきた学部3年生は数人いた。そのうち3名(故渡部真、近藤博之、小林雅之の各氏)は教育社会学の分野で研究者になっている。そのうちの小林氏がこの3月に勤め先(東京大学大学総合教育研究センター)の定年(65歳)を迎え、最終講義を行うという。最終講義は当日参加も可能という話を聞いたので、下記に案内を掲載しておく。

小林雅之教授最終講義 

日時:2019年3月9日(土) 16:00~17:30/  場所:東京大学本郷キャンパス 赤門総合研究棟A200)/http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_02_j.html / (問い合わせ先 daikei3@p.u-tokyo.ac.jp

追記 これまで、いくつかの最終講義を聞かせてもらったが、それぞれの大学と研究者の特質がよく出るものだと思う。小林雅之氏の最終講義は120名余の聴衆がいて、東大の大学総合教育研究センターの教育政策の大学院の卒業生が多かったように思う。また研究者では、市川昭午、天野郁夫、矢野貴和、金子元久という高等教育研究の重鎮の顔も見られた。講義内容は、東大の教育社会学研究室の正統を引く継いだもので、中身の濃いものであった。言い換えると学問的でかつ政策提言的な内容であった。東大の特質として、その学問的研究は文部科学省の政策に影響を与えながらも、それとは一歩距離を取っている。その特質が奨学金政策の研究にもよく表れていた。今後の研究の発展も祈りたい。

逸脱行動の原因・動機について

犯罪的ない反道徳的行為が行われたとき、その原因(・動機)を個人に求めるのか、あるいは周囲の社会環境(状況、制度)に求めるのか難しい。その両方に求めるのが正しいのであろうが、その程度は、学問分野や論じる人によって違ってくる。教育学や心理学は個人の意識に原因を求め、社会学は社会環境に原因を求める傾向があるのだろう。マスコミは「そんな酷いことをする人がいるのだ」という驚きを前面に出し、社会的原因の方は付け足し程度にすることが多いような気がする。

最近、飲食のチエーン店で働くアルバイトの店員が、食品の衛生に抵触するような動画をネットで流す行為が問題になっている。それに対しては、そのようなことをする個人の資質を問題にする見方(特に報道)がほとんどで、社会的要因の方を問題にする論調はあまりないように思う。                                  藤原新也は、社会的環境(労働環境)の方に重きを置いた見方をしている。(下記shinya talkより一部転載)

<そこに動機があるとすればそれはおそらく彼らが携わる労働の虚しさと、虚しい労働に日々勤しまねばならない自虐ではないか。今回不適切動画の現場になったのは、いずれもそこに共通するのはチエーン店であるということだ。チエーン店と聞けば各店舗共通の細密なマニュアルがあり、そのマニュアル通りに人間が動かなければならない人間のロボット化が必須条件となる。またもうひとつそれはそこに人間関係が見えない。それは集団生活に必要な人間の絆やトラストや情の関係が築かれていない虚無的集団であると言える。加えて昨今の世の中の労働環境の劣悪さがこの虚しさに追い打ちをかける。そこではおそらく虚無的労働を低賃金で働かざるを得ない現代の典型的な貧困青少年のクラスター(房)が存在し、そのクライアントをあざ笑うような跳ね上がり分子の投稿動画を見て互いに傷を舐め合うように面白がる自閉集団が目に見えるようだ。>(shinya talk ;www.fujiwarashinya.com/talk/

チエーン店で働く若者で、このような動画を投稿するものはほんの一握りであろうし、それに共感するものがどの程度いるのかわからない。実証的データ(エビデンス)が是非ほしい。                                   藤原の見方は社会的要因だけでなく個人的心理にも言及している。別の現象であるが、若者の働き過ぎを、「自己実現系ワーカホリック」という見方で分析した教育社会学の本田由紀のもの(『軋む社会』双風舎、2008,p87)は、社会的要因と個人的要因を絡めて考察したもので、このような分析ができないものかと思う。