大学での講義と私語について

同世代の元大学教師のN氏が、私が以前に「敬愛大学国際研究30号」(2017年)に書いた「学生、大学教育、学問他についてー教育社会学からの考察」(下記、再掲)を、読んでくれたようで、電話で大学の授業での私語のことが話題になった。N氏は私が「大学の授業という場で、私語やスマホいじりが頻繁にみられる」(110ページ)と、書いたのが気になったのであろう。

 N氏は、授業の初回に学生に、「良い授業をする、私の授業を真剣に聴かなければ、皆さんが損をする、私語・内職や居眠りなどを禁止する」と明るく宣言するという。そのことは自身に「相当なプレッシャーを与え、頑張るエネルギーになり、自分にもいい授業を行うことを課し、学生の為になる授業をやるように努力する」という。このように授業の最初にきちんと教員の意向や意気込みを話すと、以後の授業ではほとんど私語はないという。もっともN氏は博学の方で著書や論文の多い研究者なので、その講義内容は密度の濃いものだと推察される。同時に落語が好きで、落語から話し方や間の取り方を学んで、それを自分の話し方も取り入れたという。

私の授業観や実際の授業はN氏のものとはかなり違っていたと思う。「私のこれまでの大学での教員人生を振り返ると、とにかく書かれた優れた資料を探して、それの説明に終始してきたように思う。話し方を工夫したこともない。内容さえすぐれていれば、学生はそれに感銘を受けると考えてきた。」と以前のブログに書いたことがある。つまり話し方に工夫が必要とあまり感じたことがなく、その改善の努力もしてこなかった。学生はさぞ聞きづらく、退屈だったのであろう。

私の教室での講義は、どこでもかなり私語が多かったのではないかと思う。上智大学時代の「教育社会学」の講義では、聴講している学生の中で私のゼミ生のおしゃべりが一番多い時もあり閉口したことがある。少人数の講義より、かえって上智全学から受講者が300人以上いた「教育原論Ⅱ」の授業の方が、私語がなく静かであった。

私の私語観は、「現代学生の私語」と題して「IDE・現代の高等教育」(NO323、1991)に書いたことがある(下記参照)。それを読んだ同僚の先生から、「学生に甘すぎる」と批判されたものである。今,読んでもあまり意見は変わっていないので、今私が大学で講義をしたら相変わらず私語が多くなることであろう。

追記 私が大きな影響を受けた研究者のひとりに作田啓一がいる。作田啓一の著作は何度も読み返した。ただ、教えを受けたこともなく、面識もない「師匠」である。武蔵大学のゼミで作田啓一の「価値の社会学」(岩波書店)をテキストにして、作田啓一がいかに素晴らしいかを力説したことがある。ゼミ生のひとりが京都に行った折、京都大学の作田啓一の授業に潜る込み聴講してきて、その様子を報告してくれた。「ぼそぼそと小さな声でしゃべり、ほとんど聞き取れなかった」とのこと。本の文章は緻密で明晰なのに、話はひどいのかと思った。そのことで、氏への尊敬が薄れたことはない。

ウイズ・コロナの時代の教育

 「教育再生実行会議 第12次提言」(令和3年6月)には、「ニューノーマルにおける新たな学び」「遠隔・オンライン教育の推進」というキーワードが掲げられている。新型コロナの終焉が見えない中で、教育の当たり前を見直し、デジタルを利用して新しい学びの形態が模索されている。

 一斉教育、チョークと黒板、紙の教科書、学校行事、部活動が当たり前の学校教育から、デジタル教科書、遠隔教育、個別最適化などを取り入れた教育方法への転換が試行されている。

しかし子ども一人一台の情報端末を配布すれば、デジタル教育が進むわけではない。それには学校のデジタル環境の整備、教員の研修と意識の変革、家庭のデジタル格差の是正、教育の実践の積み重ねとデータでの検証が必須である。

学校の当たり前の見直しも必要である。学校に通うことは全ての子どもに必要なことなのか。遠隔でできることはないか、無駄な学校行事はないのか、部活動を外部化できないかなど、この機に学校生活の当たり前を見直し、過密を避け、多忙化している教員の負担も減らしたい。

 将来の社会生活を考えると小中学生にはリアルな対面指導や学校生活の重要性はなくならない。高校生大学生になると社会性も育っているので、デジタルを利用した遠隔教育も有効である。遠隔教育を経験した大学生の声をいくつか紹介する。

 「(対面教育)ならではの緊張感、表情が見える教育、人に会う苦痛やストレスの耐性を付ける。(遠隔教育で)通学時間が省ける、人に会うという苦痛から解放される、自分のペースで学習できる、私語やスマホに気を取られず集中して学べる、自分の意見を主張しやすい。対面と遠隔の両方を組み込むのが最適」など(敬愛大生)

 人には環境の変化に対して動的に応じていくレジリエンス(適応能力)がある。それは環境の変化に対して自らを変化させて対応する柔軟性である。これを駆使して難局を乗り越えたい。(『内外教育』2022年1月25日号、原稿)

デジタルの時代に思う

渡部昇一「知的生活の方法」(講談社現代新書,1976年)を読んだ時の衝撃は忘れられない。知的生活を送る為に、誰からも邪魔されない集中の時間が必要であり、その為には手元の参照する本を置いて置くことは必須であると書かれていた。優れた研究者や作家は皆立派な蔵書や書庫を持っているという。

そのような考えが、この頃少し揺らいできた。今はネットで何でも調べられる時代である。論文の引用は本からすべきと言われていたが、今はネットからの引用も許されるのでないか。写真もプリントアウトする必要はなく、デジタルで保存した方が見やすい。映画やドラマも、これまでは優れたものがDVD化され、それをレンタルして見るのが普通であったが、最近のドラマや映画はDVD化は考えず、(いつでのどこでも見れる)ネット配信だけのものもあるという(ネットフリクス等)。

同じように、本もデジタルで読む時代で、それを印刷した本として残す必要はなくなるのではないか。研究者が書く論文もデジタルで読むことができれば、それを印刷媒体に落とす必要がない。現に、学会の発表要旨も活字の冊子ではなく、デジタルで配布(配信)されるところが増えている。また大学のシラバスや紀要もネットで読むようになっているところが多い。

研究者は、自分の研究の成果を、生きた証として後世に残すために本を出版したい、一般の人も自分史を本にして後世に残したいと考える人は多いが、それは今のデジタルの時代に的確な方法なのか考える必要があるかもしれない。

追記―上記のように書きながら、旧世代の者には本のない生活は考えられない。本(棚)に囲まれた部屋にいると落ち着く。本の題を見ただけで、その書籍に書かれていたことが思い浮かび、読んだ当時の心情が蘇る。どんなに意匠を凝らした建築や部屋でも本(棚)がおかれていないと貧相に見える。どんな素晴らし自然や景色も、本(棚)に囲まれた部屋を超えることはできない(と私は思う)。このように、全く違う考えが、私の中で行き来する。

「大学入試共通テスト」の国語の問題について

大学入試の制度に関してはいろいろ議論されることが多いが、大学入試問題の中身に関して議論されることは少ないように思う。今回の大学入試共通テストは、理系の平均点が低いようだが(数学ⅠA 昨年より17.4低い、数学ⅡB  14.0低い、生物22.6低い、化学 8.0低い)、文系科目の試験問題に問題はないのであろうか。たとえば、国語の平均点は前年より8.7点低い(200満点中108.8点)と、数学などよりは高く、妥当な点であり、適切な問題が出されたのであろうと推察されるが、実際にその出題内容を見てみて、疑問に感じることがいくつかあった。

一番は、国語の現代文に関してみてみると、課題文がとても難解なことである。今回評論は、檜垣立哉・ 阪大教授と藤原辰史・京大准教授の「食べること」に関する哲学的な内容と、文学は内向の世代の黒井千次の「庭の男」の一節が出題されている。今の若者(高校生)の読書離れがすすみ、長い文章を読めない書けない若者が増えていると言われる中で、同一年齢の半数近く(約53万人)が受験する大学入試共通テストの試験の問題に、このような難解な文章を読ませる意味はあるのか。出題者は、受験生の活字リテラシィの実態をどの程度理解しているのか、何を意図してこのような難解な文章を出すのかと疑問に思う。

さらに、作家の黒井千次氏の「庭の男」の内容は、高齢者の生活心情がよく描かれていて同世代の老人が読むと感銘を受けるが、これを高校生に共感しろ、異文化理解が大事だというのは、あまりに押し付けがましいように思う。もう少し、高校生の心情に寄り添った内容の文章でないと、文章題の設問に対して、高校生の共感や理解を得るというのは無理ではないかと思った。現代の大学入試の国語は、若者が老人の気持ちをどの程度理解できるかを測るというものなのであろうかと疑いたくなる。(黒井千次の「庭の男」の文章は、京都教育大学で2015年に出題されているとのことだが<卒業生のI氏からの情報>、その時は一大学一学部の入試問題だが、今回は50万人以上が受けている大学入試共通テストなので、規模が違う。)

現代文の設問を見ると、書かせる解答もあるが、大部分は4~6拓の中から、(解釈として)適切なものを選べというもので、もし課題文を全く読まないで(理解しないで),解答してもかなりの確率で正解に至ることができる(明らかにおかしい解答の選択文を除外すればさらに正解の確率が上がる)。このように、数学などと違って、国語の場合全く理解していなくても、正解に至る確率はある程度ある(社会や英語も同じであろう)ので、平均点が高い(適切)と言っても、問題がないわけではない。

別の見方も書いておく。安藤宏・東大教授は「なぜ国語に文学」という題で、「異質な他者に触れ、心情を思う」ことがこれからは大事ということで強調しているが(朝日新聞1月22日朝刊)、高齢化社会の中で若者に世代の違う高齢者という「異質な他者に触れ、その心情を思う」ことが必須になるというのなら、(上と逆に)今回の黒井千次の文章の出題は時代の要請に合い、きわめて適切なものであったともいえる。

別の見方(2)ー上記は「若者の読み書き能力が高くない」という前提で書いているが、実際大学で学生に遠隔授業で資料を読ませそれへのコメントを書かせると、学生は難解な文章(例えば上野千鶴子「セックスとジェンダーのズレ」『差異の政治学』)の趣旨を的確に読み取り、いい文章でコメントを書いてくる。それは少数の学生ではなく、多くの学生に見られる傾向である。大人の世代が思う以上に、今の若者世代の読み書き能力は高いかもしれないとも思う。

老人の相手をしてくれるのは野生の鳥だけ?

野生の鳥は冬は餌がなく困っていることであろうーそんな勝手な想像をして、昨日もう午後4時に近い夕方なのに、検見川浜にパンやご飯粒を持って出かけた(車で12~3分)。 やはり夕方なので、昼間はたくさんいる鳩やカモメの姿は一匹も見えなかった。多くの鳥は夕方 ねぐらに帰るのであろう。飛んでいるのは少数のカラスと、群れで戯れているスズメと、海辺に浮かんでいる鴨だけであった。雀は少しパンの切れ端を警戒しながら突っつき咥えて飛び立つが、海辺の鴨は近づくと沖の方に逃げてしまう。

私のように鳥に餌をやる老人は時々いて、紙の袋から餌を出し、遠慮がちにあげている。老人の相手をしてくれるのは野生の鳥だけというのも、少しわびしい。その鳥も夕方にはねぐらに帰ってしまう。