2021年度 後期授業 「教育課程論」(中高向き)

今年度(2021年度)後期は、敬愛大学で1コマだけ担当した。科目名は、「教育課程論」(中高向き)で、受講生は教育学部と国際学部の学生が55名、経済学部が19名、合計74名である。授業形態は遠隔のオンデマンドで行った。

基本的には、毎回KCNで「講義メモ」と「授業資料」を数枚配信し、講義メモの最後に書かれている設問に、200字から1000字の字数で答えるよう指示した。学生の書いた解答(コメント)には、毎回個々の学生にコメントを返したので、その数は1000を超えたことになる。私の授業の場合、学生は教室での対面授業より、遠隔の授業の方がよく「講義メモ」や「授業資料」をよく読み、しっかりした解答(コメント)を、毎回寄せて来ているように思う。学生にも他の受講者の解答(コメント)の一部を解答例として、匿名で、KCNのクラスフォーラムで知らせている。

今回の毎回の講義テーマは、下記のようである。

第1回 教育課程とは / 第2回 教育課程の2側面 / 第3回 学習指導要領の変遷 / 第4回 「主体的・対話的で深い学び』とは / 第5回  教育に関するWEBサイトを読んでの感想 / 第6回 学校と地域社会の関係を考える。/ 第7回 新型コロナ後の教育/ 第8回 中学生・高校生の特質、生徒文化 / 第9回 ジェンダーと教育 / 第10回 受講者の解答(コメント)を読んでの感想 / 第11回 新型コロナ禍と教育(敬愛大学シンポの感想)/ 第12、第13回 総合的な学習の時間 総合探求について(静岡県立大学の学生の作品への感想)/ 第14回 高校教師について。高校の新教育課程 /  第15回 まとめと最終レポート課題

第13回と第14回の「講義メモ」を、参考に掲載しておく。

社会学の当たり前を疑う

社会学は当たり前を疑う学問だと思うが、その社会学自身の当たり前を疑うことをあまりしないのではないか。「社会の創造主は人間」という前提が社会学にはあることあまり自覚しない。大澤真幸のコラム記事を読んでそのように感じた。ルーマンは 社会学のその当たり前を疑い、別の見方を提示したという。

<私の考えでは、ルーマンが試みたことは、理論の前提から「神」を完全に排除したとき、社会はどう記述できるかの探究である。……というと、社会科学はみな神など前提にしていない、と反論されるだろう。/ しかし、どの社会理論も「人間が社会をつくる」と考える。このとき人間は、あたかも創造主のように社会の外に立ち、社会を操作できるかのように、思い描かれる。そう、「人間」という概念のうちに、ひそかに神の役割が転移されているのだ。/ というわけで、ルーマンは、徹底した反人間主義の立場をとる。彼は、理論から人間概念を追放した。社会システムの要素は人間ではない。では何か。コミュニケーションである。/社会システムは、コミュニケーションだけで成り立っている。>(「古典百名山+plus:116ニクラス・ルーマン『社会システム理論の視座』 (朝日新聞、1月15日朝刊)より一部転載」)

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15172375.html?iref=pc_ss_date_article