「地政学」について

メジャーな学問分野とマイナーな学問(分野)があると思う。法学や経済学や文学、そして理系の学問は前者に属し、社会学はマイナーが学問だったが、マスコミでも社会学者の発言がよく取り上げられ、メジャーになりつつある分野だと思う。

私は「考現学」という今では廃れたしまった分野に興味をもち、ブログに考現学について、次のように書いことがある。昔学生ともその手法で調査をしたことがある。

<今和次郎は考現学の創始者で、そして彼一代限りで終わってしまった。考現学は考古学との対比で考えられた名称で、現在あるものを観察で明らかにしようとするものである。対象はモノでも人間でも何でもよい。ただ、方法は観察に徹し、アンケートを取ったり、インタビューしたり、試薬を使ったりしない。今和次郎は東京美術学校図案科卒で、観察したものをデッサンに残しているが、その由来(原因―結果)などは探求しようとはしない。考現学はその後、「生活学会」や「現代風俗研究会」や「路上観察学会」や「ファッションの定点観測」など受け継がれていく。>(2012年4月28日)

最近、「地政学」という言葉を聞き、そのような学問があることをはじめて知った。地理学と政治(学)とが結びついた分野のようであるが、ドイツのナチスや日本の戦前の軍国主義に利用されたようで、戦後はあまり聞かなくなった。ただ、地理的なことと政治的なことの結びつきはいつの時代にもあり、今後見直される分野と思った。(ネットで調べる。一部抜粋)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6

<地政学(独: Geopolitik:ゲオポリティク、英: Geopolitics)は、地理的な環境が国家に与える政治的(主に国際政治)、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するものである。イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国などで国家戦略に科学的根拠と正当性を与えることを目的として発達した。歴史学、政治学、地理学、経済学、軍事学、文化学、文明、宗教学、哲学などの様々な見地から研究を行う為、広範にわたる知識が不可欠となる。また、政治地理学とも関係がある。政治地理学の歴史は古代ギリシアのアリストテレスの時代にさかのぼる。アリストテレスは政治学と物理的環境の関連に注目した。18世紀の法学者シャルル・ド・モンテスキューは領土と気候が政府システム形成に対して与える影響に注目し、その思想はアメリカ合衆国憲法に取り入れられた。地政学は19世紀に本格的に発達し、ドイツの地理学者フリードリヒ・ラッツェルは著書『政治地理学』において、国家は生きている有機的組織体であると主張し、「生存圏」という考えを唱え、『政治地理学の祖』と言われる。日本においては第一次世界大戦期に、チェレンの説である「ゲオポリティク」が紹介され、地理学者の飯本信之はこれに「地政学」の訳語を当て、一般に広く使用されるようになった。昭和初期に、ドイツとの地理的な類似性からドイツ地政学の影響を大きく受けており、小牧実繁が『日本地政学宣言』(弘文堂書房、1940年)を著し、「大東亜共栄圏」の概念を形成し、また、岩田孝三の『国防地政学』(帝国書院、1943年)においても、その地政学理論を日本の拡張政策に結びつけるべきであるとの記述がみられる。戦中期には一種のブームのようになったが、敗戦後には多くの地政学者は公職追放され、地政学はほとんど議論も行われないままタブー視されるようになった。/人間の営みと地理との間に深い関係性が存在することは否定しがたい事実であり、世界各地には生存適地と資源地域が局地的・不平等に存在している。 それに関連して、人口密度も国家発展の度合いも一律ではない。人間の適応能力は限定的であるため、地域の特性は人間の行動への影響には一定の法則性が存在することは歴史をみても明らかである。>

「医療の社会学」について

昨日(6月27日)のNHKテレビ「パンデミック 激動の世界 検証 先進医療 12回,なぜ危機は繰り返されるのか」を少し見た。日本の医療のシステムやそれを支える日本人の医療観を多角的にみる必要を痛感した。つまり「医療の社会学」の必要を強く感じた。日本の医療は平時は素晴らしいが緊急時に対応が遅れている、民間医療が発展しているが大規模な公的病院は少ない、今コロナで一般の病気の受診が減少して病院は収入減になっているが、病気の時すぐ病院に行く日本人の行動が見直されていることなど、興味深い論点がいくつも提示されていた。

ネットで、「医療社会学」を検索すると、いろいろ書かれている。米国などに比べ、日本の研究は遅れているとのこと。日本でも「教育社会学」以上に「医療社会学」の研究がなされてもいいと思った。(ネットより一部抜粋)

<制度的学問としての医療社会学は、第二次世界大戦後の米国において成立し、1950年代に著しい発展を遂げている。当初は、精神衛生や公衆衛生に関する研究プロジェクトに社会学者が参加することで研究が始まったこともあり、医学の要請に応じた研究が中心であったが、やがてタルコット・パーソンズらによって、独自に医療や健康を対象とする社会学理論の構築が進み、1959年にはアメリカ社会学会に医療社会学部門が設置されるに至った/  日本では、1960年代頃に、ようやく公衆衛生や精神衛生、看護などの分野で社会学や注目されるようになり、また社会学者もこれらの分野に目を向け始めるようになった.学会組織としては1974年に日本保健医療社会学会が発足し、また、東京大学などのいくつかの大学研究機関においても、「保健社会学」名の講座が設けられるようになったが、多くは「医療における」保健や看護の社会学(すなわち、保健社会学、看護社会学)としての性格を強く帯びていた。したがって、今日でも、「健康と病気の社会学」への世界的な医療社会学の展開からみれば、日本では依然として研究者の層は薄く研究蓄積も十分ではない。この原因としては、第一に医療側に権威主義的、閉鎖的な傾向に基づく医療支配がなお強く残っており、外部からの参入や研究が困難であること、第二に、社会学側において、保健・医療の分野が重要視されてこなかったこと。/ パーソンズの議論は、医療を社会システム維持の機能要件として肯定的に捉えるものであるのに対して、近代における医療制度を否定的に捉えているのがイリイチ(医療化論)やフーコー(医学的まなざし論)である。イリイチは、医療制度は「専門家依存」をもたらすものであり、すなわち人間個々人の能力を奪い、不能化するものであると批判し、さらには、「医療そのものが健康に対する主要な脅威になりつつある」として、これを広義の医原病(社会的医原病、文化的医原病)としている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E7%99%82%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6)

夫婦別姓について

夫婦別姓に関する最高裁の裁判が、最近あったようだが、私自身はあまり関心をいだいてこなかった。それは今も変わらない。ただ、保守の自民党の中に「夫婦別姓」に賛成の人もいるというのは、少し不思議に感じていた。

裁判の結果を報じる新聞記事(朝日新聞,6月24日)は、「封建的」「男性が支配的」 夫婦同姓合憲、海外で報道―という見出しで。次のように書いている。

<同じ姓でしか婚姻手続きができないとする法律の規定を合憲と判断した23日の最高裁大法廷の決定について、海外メディアも相次いで報じた。結婚をするためには夫婦別姓が選べない現状について、否定的な論調が多かった。 英BBCは24日の放送で、1898年に成立した民法で夫婦別姓が認められていないことについて、「女性や子どもは、家庭において男性の管理下にあるべきだという封建的な制度の一部」と説明。「男性が支配的な与党は同じ姓でいることが家族の絆を保つと信じている」とし、「夫婦同姓が定められている先進国は日本だけ」と紹介した。 ブルームバーグ通信は、最高裁の決定を伝える23日付の記事で、日本の現状は「男性も妻の姓を名乗ることはできるが、約4%(の男性)しかそうしていない」と指摘。「多くの女性は職場で生まれたときの姓を『別名』として使い、二つのアイデンティティーがあることで混乱や不必要な負荷を感じる人もいる」としている。(中略)。与党の一部からも夫婦別姓に肯定的な政治家が出てきたにもかかわらず、自民党の保守派が、夫婦別姓が伝統を壊すとして反対していたと報じた。(日高奈緒)>

「夫婦別姓は、日本人の家意識と関係がある」と友人から聞かされ、びっくりした。先祖の位牌を守るという家意識は、日本人の中にいまだ強い。今少子化で、家に女の子しかいない家がかなり多い。その家では、その女の子が結婚すると、夫婦別姓で姓が変わり、その家の位牌を守る人がいなくなる。それを防ぐために、(先祖を大事にする)保守層が夫婦別姓に賛成しているのだという。夫婦別姓は、男女平等や女性の権利に確立という革新的なイデオロギーから来ている運動だと思っていたが、近代以前の家意識の継続の為のものと考える人がいることに驚いた。核家族の「近代」を挟んで、拡大家族の「前近代」と少子化時代の「現代」が手を結んでいるということなのであろうか。

千葉の大賀蓮を見に行く

昨年は6月25日に千葉公園の大賀蓮(おおがはす)を見に行っている(6月26日のブログ参照)。「極楽浄土に咲く花にふさわしく上品で心が安らぐ見事な花である」と感想を記している。(今日の朝ドラでも,蓮に関して同じような感想が述べられていた)

今年は一昨日(6月21日)見に行った(車で10分)。昨年と同じような感想を持ち、その美しさと上品さに感銘を受けた。ただ、行ったのがお昼近くだったので、咲き切ったという花もいくつかあり、やはり蓮は早朝に見に行った方がいいと思った。早朝や午前中の凛とした光と空気の中で、花も凛として咲き、見る者の気を引き締めてくれる。

藤原新也のオリンピック新聞記事を読む

藤原新也のオリンピックに関する記事が今日(6月22日)の朝日新聞に掲載されていた。久しぶりに藤原節を聞く(読む)思い。11年前、上海の万博を見にいった折、それ以前の上海の光景が一変していることに驚いたことを思い出した(2010年7月20日ブログ参照)。(新聞記事を一部転載)

「風景を人を、変えてしまう五輪 祭りの影で土着文化を破壊、今なお 写真家・作家、藤原新也さんに聞く」

 <開催の賛否をめぐる議論の図式には正直、食傷気味でもある。少し遠い時空へ思考をめぐらせてみたい。1976年。韓国・ソウルから列車に乗り、慶尚北道へ向かう車窓で美しい農村風景が目に飛び込んできた。ありふれた田舎かもしれないが、おとぎの国に見えた。後年この奇跡的な出あいの写真に「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬、目の前を過(よぎ)ることがある」と一文をつけ、著書『メメント・モリ』に収めた。/ (中略)/ 以降、韓国へ行くたびに訪ねたが、90年に足を運んだとき、立ち竦(すく)んだ。見渡す限りの更地が広がっている。その2年前のソウル五輪を機に高速道路が開通し、役所がマンションを建て住民を立ち退かせたのだという。/ (中略)/ 五輪は風景を変え、人を変える。大義名分の下、すべてが進む。そこのけそこのけとばかりブルドーザーが風景を壊し、古くからの文化も人心も一緒に、一気呵成(かせい)に押しつぶしていく。/ 2011年。中国・上海の路地裏を歩いた。その3年前の北京五輪前後、北京の胡同(フートン)の取り壊しが話題になったが、上海でも古くからの庶民の住居群が五輪のために減っていた。/ これとまったく同様の変貌(へんぼう)が、つい最近の東京でも起きたことを、人はもう忘れているのではないか。18年に豊洲に移転し、跡地が大型駐車場に変わった築地市場である。/ 欧州の貴族文化に端を発した近代五輪が、華やかな祭りの影で世界の土着文化を破壊していった「裏の歴史」。それは今も、厳然と積み重ねられ続けている。/(中略)/IOC(国際オリンピック委員会)の重鎮による屈辱的発言が報じられたが、黙りこくった為政者の姿を見るにつけ、英語なら単純にOlympic Flameと言うところ、「聖火」と神がかった語を使う日本社会を考えさせられた。 そこには喜々として一丸となり、五輪を崇(あが)め奉る、独特の感性がないだろうか? 先進国に仲間入りする関門としての初開催から半世紀余、なお後進国的な心性は変わらない。(以下略)>