他者からの敬意を糧として生きる

久しぶりに内田樹のブログを読んだ。「人間は他者からの敬意を糧として生きる」というフレーズ(内容)に感心した。

「人間は他者からの敬意を糧として生きる。それを失ったものは『生きている気』がしなくなる。日本人はいまそのようにして国力の衰微を味わっているのである。」(「安倍政権の7年8カ月」 http://blog.tatsuru.com/2020/08/29_1014.html

近場で過ごす夏休み

新型コロナ禍の自粛で、皆遠出を控えるようになっている。その分、近場の公園や海浜に人が出かけるようになっている。昨日(29日)夕方、犬の散歩も兼ねて、近くの海(検見川浜)へ夕日を見に出かけた。同じように考える人が多いのか、通常車で12~3分で行くところを車で2倍近い時間がかかった。

もう夕方の6時というのに駐車場は満杯に近く、夕日を見に来た人、 夕涼みの人、 犬の散歩に来ている人、波うち際で遊ぶ子ども、ウインドサーフィンをする人、さらにヨガをするグループなどで、賑わっていた。ブランコを持ち込んで、楽しんでいる家族もいた(下記IMB参照)。

日が沈む空に雲があり、日の入りは見ることができなかったが、夕焼けはきれいで、遠くに富士山の頂上が見えた。近くの幕張メッセにある高層のアパホテルの客室の窓に明かりが7割方付いていて、近場のホテルで夏休みを過ごす人が多いことが伺われた。散歩に連れて行ったうちの犬(キャバリア)はもう歳で(14歳)、後ろ脚2本の靭帯が切れていて、幼児の乗る乳母車に乗せての移動であったが(最近は同じような犬が多いのか、奇異な目で見られることは少ない)、久しぶりの海を楽しんだようであった。

人を傷つける罪

先に書いた「人との関係は必ず、お互いを傷つけるの」ということに関して、少し補足しておきたい。人は生きる為に、動植物を殺して食べることをしているというのもそのひとつ。恋人や結婚相手にある人を選んだということは、他の人を選ばず傷つけたということでもある。またある(限られた)地位を得たということは他の人を蹴落としたということでもある。このように生きるということは、他者を傷つけずにはいられない。それだけ罪深い。

同様のことを、藤原新也も『なにも願わない手を合わせる』(平成15年、東京書籍)の中で、次のように書いている。

<この世に生を授かったすべての生き物は、罪を重ねずして生きて行くことはできない。/ 人と人が出会う。人と動物が出会う。そこには慈しみや愛が生じるわけだが、その慈しみや愛は罪と背腹の関係でもありうる。/ 性悪説をとるということではなく、「生きる」ということの中には罪を重ねるという意味合いも含まれているということである。(中略)/ あの生き仏のような赤子も、またこれから幾多の慈しみや愛や欲望や、そしてそれに見合うだけの罪科を背負う旅立ちをせねばならないわけだ。> (同 22頁)

人との距離の取り方について

今ソーシャル・ディスタンスが言われ、人との距離を取ることが推奨されている。韓国ドラマをみていると、人々が頻繁に一緒に食事をしたり飲みに行ったりして,人との距離が近い場面が多く出てくるが、私達は今、ほとんど家族以外と食事をしたり飲んだりする機会がない。人との短い立ち話も、はばかれる雰囲気である。ただ、ネットでのコミ二ケーションは可能だが、それも実際の人との接触の減少に伴い減っているように思う。このような中で、人と人とのと距離は、今後どうなっていくのであろうか。

また人との距離はどの程度が最適なのであろうか。快適な人との距離に関しては、国民性があり、アラブ人は西洋人より人との距離を近く取る傾向があり、その両者がビジネスで立ち話をしている時、アラブ人が西洋人をどんどん押して壁までいくという分析を読んだことがある。

性差や年齢差もあるであろう。また個人差も大きいであろう。特に初対面の人との距離をどのように取り、その後どのようになるかは個人差があるように思う。普通は、初対面と人とは最初ある程度の距離を取り、相手とやりとりしながらの、その距離を縮めたり遠ざけたりするのではないか。

私の場合、初対面の人との距離を最初通常より近くに設定してしまう傾向があるように思う。未知の人に出会ったのがうれしくて、勝手に親しみを感じてしまい、距離を近くに設定してしまうのである。人との関係は必ず、お互いを傷つけるので、相手が自分を傷つけた程度に応じて、相手との距離を取る(初対面の時に近かった人との距離がだんだん遠くなっていく)。このような人との距離の取り方に関して、後輩から「そのやり方はひどいと思います。それだと人はあなたから『傷つけた』と必ず恨まれるようになります。そして悪いのは傷つけた人ということになります」と言われ、びっくりしたことがある。

「間の取り方、出会いのマナーに 新しい作法」という記事が昨日(8月29日)の朝日新聞に載っていた。これから、人との距離は、コロナやネット社会の中で、どのように変化していくのであろうか。

<会わない、触らない、近寄らない。そんな「作法」が、わずか半年で世の中に浸透した。通勤、買い物の雑踏で、他人が近づくたび身をよじる。お互いがお互いの鬼である、静かな鬼ごっこのような緊張が走る。(中略)外側から来た異人に対して、まずは警戒する。受け入れる場合も、一定の条件をつけて慎重に受け入れる」(中略) Rさんがネットでの出会いに失敗しないために編み出したのは、新しいマナー、出会いの作法と言えないか。リモートで見知らぬ者同士が出会う時の、距離の取り方、時間のかけ方。そこから相手の交際への真剣さや慎重さ、人柄さえも推し量っていた。(中略) ソーシャルディスタンシング。新しい生活様式。とらされるもの、とらなければならないものになっている「距離」。だが「間」は、一人一人が、デザインできるものだ。(朝日新聞8月21日朝刊「人と間 コロナ禍の距離」より一部転載)

学校化された意識・習性、あるいはサラリーマン意識

私の父はサラリーマンだったので、平日は朝早く出かけ働き、夜遅く帰って来ていた。母と祖母は家事の他、貧しい家計を助ける為いつも内職をしていたように思う。したがって親が遊んでいる姿を見たことがない。家族旅行に行ったこともない。このような親を見て育ち、人は生活する為にいつも働くものと思ってきた。そして子どもは、学校に通い一生懸命勉強することが、大人の働くことに相当すると思っていた。

自分が大学教師になってから、勤務時間が決まっているわけではなく、授業や会議以外、大部分の時間は自由裁量の時間で、何をしてもいいわけではあったが、平日の昼間に遊んだという覚えはない。これはサラーマンの親を見て、あるいは学校通いから身についた習性(学校化された意識・習性)であろう。大学教師の場合、土日も、授業の準備や原稿の執筆等で机に向かうことが多く、家族にとってはストレスが溜まったことであろう。

 人は定年で退職した後、どのような生活をしているのであろうか。特に大学教師の場合は、何をしているのであろうか。今友人や元同僚に会う機会がなく、そのような情報が入ってこない。

 私の周囲には、サラリーマンで退職した後、テニスや卓球三昧で、週に3~4回はそれを仕事のようにしている人がかなりいる。私もその人たちと一緒にテニスや卓球をしているが、私が参加するのは土日で、平日に参加することはほとんどない。私の場合平日は、昔からの習性で、遊ばず、仕事的なことをしていると思う(授業の準備、原稿執筆、読書、メール等)。

 今日(8月25日)、はじめて平日の昼間の卓球の練習に参加してみた(午前9時―11時)。内容は土日の卓球の練習と変わらないのであるが、私の意識の中に「こんな平日の昼間から卓球なんかして遊んでいていいのであろうか、後期の授業も1コマ引き受けているのに、その準備をしなくていいものなのか、大学の教師たるもの、平日の昼間に本も読まずに、遊んでいていいのか」という後ろめたさが働き、卓球の練習に没頭できなかった。学校化された意識・習性、あるいはサラリーマン意識を自覚した次第。他の退職した大学教師は、毎日何をしているのであろうか。