人を傷つける罪

先に書いた「人との関係は必ず、お互いを傷つけるの」ということに関して、少し補足しておきたい。人は生きる為に、動植物を殺して食べることをしているというのもそのひとつ。恋人や結婚相手にある人を選んだということは、他の人を選ばず傷つけたということでもある。またある(限られた)地位を得たということは他の人を蹴落としたということでもある。このように生きるということは、他者を傷つけずにはいられない。それだけ罪深い。

同様のことを、藤原新也も『なにも願わない手を合わせる』(平成15年、東京書籍)の中で、次のように書いている。

<この世に生を授かったすべての生き物は、罪を重ねずして生きて行くことはできない。/ 人と人が出会う。人と動物が出会う。そこには慈しみや愛が生じるわけだが、その慈しみや愛は罪と背腹の関係でもありうる。/ 性悪説をとるということではなく、「生きる」ということの中には罪を重ねるという意味合いも含まれているということである。(中略)/ あの生き仏のような赤子も、またこれから幾多の慈しみや愛や欲望や、そしてそれに見合うだけの罪科を背負う旅立ちをせねばならないわけだ。> (同 22頁)

人との距離の取り方について

今ソーシャル・ディスタンスが言われ、人との距離を取ることが推奨されている。韓国ドラマをみていると、人々が頻繁に一緒に食事をしたり飲みに行ったりして,人との距離が近い場面が多く出てくるが、私達は今、ほとんど家族以外と食事をしたり飲んだりする機会がない。人との短い立ち話も、はばかれる雰囲気である。ただ、ネットでのコミ二ケーションは可能だが、それも実際の人との接触の減少に伴い減っているように思う。このような中で、人と人とのと距離は、今後どうなっていくのであろうか。

また人との距離はどの程度が最適なのであろうか。快適な人との距離に関しては、国民性があり、アラブ人は西洋人より人との距離を近く取る傾向があり、その両者がビジネスで立ち話をしている時、アラブ人が西洋人をどんどん押して壁までいくという分析を読んだことがある。

性差や年齢差もあるであろう。また個人差も大きいであろう。特に初対面の人との距離をどのように取り、その後どのようになるかは個人差があるように思う。普通は、初対面と人とは最初ある程度の距離を取り、相手とやりとりしながらの、その距離を縮めたり遠ざけたりするのではないか。

私の場合、初対面の人との距離を最初通常より近くに設定してしまう傾向があるように思う。未知の人に出会ったのがうれしくて、勝手に親しみを感じてしまい、距離を近くに設定してしまうのである。人との関係は必ず、お互いを傷つけるので、相手が自分を傷つけた程度に応じて、相手との距離を取る(初対面の時に近かった人との距離がだんだん遠くなっていく)。このような人との距離の取り方に関して、後輩から「そのやり方はひどいと思います。それだと人はあなたから『傷つけた』と必ず恨まれるようになります。そして悪いのは傷つけた人ということになります」と言われ、びっくりしたことがある。

「間の取り方、出会いのマナーに 新しい作法」という記事が昨日(8月29日)の朝日新聞に載っていた。これから、人との距離は、コロナやネット社会の中で、どのように変化していくのであろうか。

<会わない、触らない、近寄らない。そんな「作法」が、わずか半年で世の中に浸透した。通勤、買い物の雑踏で、他人が近づくたび身をよじる。お互いがお互いの鬼である、静かな鬼ごっこのような緊張が走る。(中略)外側から来た異人に対して、まずは警戒する。受け入れる場合も、一定の条件をつけて慎重に受け入れる」(中略) Rさんがネットでの出会いに失敗しないために編み出したのは、新しいマナー、出会いの作法と言えないか。リモートで見知らぬ者同士が出会う時の、距離の取り方、時間のかけ方。そこから相手の交際への真剣さや慎重さ、人柄さえも推し量っていた。(中略) ソーシャルディスタンシング。新しい生活様式。とらされるもの、とらなければならないものになっている「距離」。だが「間」は、一人一人が、デザインできるものだ。(朝日新聞8月21日朝刊「人と間 コロナ禍の距離」より一部転載)