梅雨の一休みー教育原論第7回 課題

遠隔授業で、毎回資料を大量に読んでコメントを書くことを学生に課しているので、ここで一休みで、「自分の好きなことを書きなさい」という課題を、第7回は出した。梅雨の一休みである.

このようなことをする理由付けは、梅雨の一休みの他に、次のように書いた。つまり「特別の教科「道徳」の4領域のひとつに『自分自身に関すること』があり、その中に「自分の特徴に気付き、よい所を伸ばす」(小学校3~6年生)」という項目(徳目)があります。それと関連することです。」「これは、好きな作家や本、あるいは好きな歌手や歌に内容を通して、自分の好きなものや価値観を考えるということで、それは、『自分の特徴に気付く』ということ(道徳項目)に通じるものです」として、「自分の好きなこと あるいは好きな本、あるいは好きな歌について考え、それを報告してください」とした。参考資料として、以前敬愛のゼミの2年生が「自分の好きなこと」を話してくれた記録(HP;2015年6月11日)と、歌の分析(添付参照)も配信した。

 65名の回答(コメント)があったが、その内容は、歌手やアイドルグループ、スポーツ、映画、ゲーム、本、アルバイト、you tube など多岐に渡っている。その内容から、今の若者(大学生)の好み(志向)の一端が伺い知れる。私の知らない分野も多く、多くのことを学んだ。その一部を、下記に添付する。

狩猟について

あまり深くは考えないことがある。たとえば、病気や死ことは、少しは考えるが、深く考えることはしない。また私が深く考えることを避けていることに,食のことがある。具体的には、命ある動物を食べることはいいことなのかということである。私はベジタリアンでないので、鳥や牛や豚の肉、あるいは魚を普段食べているわけであるが、それらの動物の命を奪っていることに関しては深くは考えないようにしている。それを考えると、肉や魚を食べられない。

今から40年くらい前の昔のことを、今でも時々思い出す。大学の助手をしていた時、研究室の松原治郎先生のお供で、富山県の教育委員会の依頼で、先輩や院生らと富山県の教育計画の基礎データを調べに行ったことがある。その打ち上げで県の教員委員会の人が、我々に高級な料理をご馳走してくれた。その時に出た料理が「ヒラメの生け作り」であった。少し前まで料亭の水槽で泳いでいたヒラメを料理して、生きた姿のまま刺身として出す高級料理であった。ヒラメの身を箸で突っつくと、ぴくぴくと動いた。皆は美味しいと言って食べたが、私は、ヒラメの痛みを感じ、食べることができなかった。そしてその後も2~3か月は白身の魚は食べることができなかった。

小学校のクラスで豚を飼い(飼育し)、そのクラスが解散する時、その豚をどうするか(食肉業者に渡すかどうか)を、議論するような実践(映画?)が昔あった(https://ja.wikipedia.org/wiki/ブタがいた教室))。そのようなことを小学生に考えさせるのは、残酷なことだと私は思った。

食育の教育で、動物など生きたものの生命を食する時は、生きものの命をもらうことへの深い感謝を持ち、命を粗末にせず残さず食べるということが大切、というようなことが言われているような気がするが(きちんと調べたわけではないので、正確にはわからない)。人間の都合で、動物の命を奪って食べ、感謝するなど、私は欺瞞的なような気がする。したがって、このことは、深く考えないようにしている。

今年の大学入試センター試験の国語の問題にも出た河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』(筑摩書房、2014)を読んでいたら、狩猟のことが書かれている箇所があり、この食の問題への1つの切り口になるように感じた。また、狩猟は、その狩の場に溶け込むことが大事と書いてあり、人が何かを判断する時の有効な方法であることも知った。

狩猟は、農耕とは違い、定住せず、手つかずの自然(wilderness)に分け入って、動物を追い、食うか食われるかの戦いをひろげることだという。人間は猟に敗れ、動物(たとえば熊)に襲われ食べられてしまうこともあるという。狩猟は「飼育」とは違い、動物を殺すか自分(人間)が殺されるか対等な立場にある戦いであるという。生きるためには、相手を殺さざるを得ず、食うか食われるかの戦いが狩猟である。(動物との対等の)戦いであるのなら、「飼育」のような後ろめたさはない。殺して食べることはできるかもしれない、あるいは殺されても諦めがつく)。

もう一つ感心したのは、狩猟はその狩の場に身を潜め、その場の全体状況を把握し感じ、時が来れば一気に行動を起こすこと必要があるという。農耕のように先を見こして計画してことを運ぶのでない。狩猟のように、全体の場の空気を読むというのは、受け身ではなく、ものごとをなす重要なことということ知った。上記のようなことが書かれた河野の著書の箇所を、少し転載しておく。

「狩猟者は『食べる―食べられる』関係によって自己を自然の一部と感じる。獲物を取るために、環境に同化し、獲物の行動を模倣する。(中略)狩猟者は、自然と覚醒的に一体化し、その変化と流転を感知する。(中略)周囲環境に溶け込まねば、獲物に自分の存在を発見され、逃げられてしまう。」(84-5頁)。「猟とは人間が食料を得るという目的のために、ウイルダネスで動物と対峙する行為である」(85頁)。「猟の獲物とは、人間以上の運動性能を持ち、稀少であるような動物である。猟は、高度な生命を自分の生命の資源として、その魅惑的な生命に死をもたらす」(86頁)。「獲物を捕るには、獲物と狩猟者が共に生きている環境を熟知し、獲物の意思を理解し、その行動を模倣してみなければならない」(87頁)。「猟は獲物を食べるために捕る。獲った動物を食べるのは、道徳的責務ですらある。殺した獲物を食べないのでは、獲物も狩猟者も生の意味を失うからだ。しかし食べられるのは動物の方とは限らない。相手がクマのような肉食獣であれば、人間が逆に獲物になる可能性もある」(90頁)。「狩猟者の志向性は、志向のない志向性である。それは環境の全変化への知覚である。獲物に変身し、周囲自然に同化した身体による志向性のない知覚と、解釈しない志向性、これが狩猟者の意識である。志向性のない志向性とは、存在に一切の意味を付与しないでいる。純粋な存在との邂逅としての志向性である。これがウイルダネスでの猟する意識である」(97頁)(河野哲也『境界の現象学』筑摩書房、2014)

韓国映画「パラサイト―半地下の家族」の評価

今年度のアカデミー賞を受賞した韓国映画「パラサイト」を見た(劇場ではなく、レンタルしてパソコンで)。私の感想はともかく、見た人の評価をネットで見てみた。アカデミー賞を獲得しただけあって、専門家の評価はきわめて高い。一般の人の評価はどうであろうか。

1つのサイト(https://eiga.com/movie/91131/review/)で見ると、だいたい5点満点の5か4の称賛が7割、3の中間が1割、2か1の酷評が2割という割合で、一般の人の評価もおおむね高い。

その中身を見てみると、称賛(4&5)は「経済格差を縦の構図を巧みに用いて描いた演出センスに脱帽する。何から何までセンスが良い作品だ」「貧富の差の拡大というグローバルに深刻化する問題を取り上げ、予測のつかない超一級のエンターテイメントとなった」「最初から最後まで引き込まれ、あっという間の2時間。エンディングも最高」。など。中間(3)は「面白いが、深さ・鋭さには欠ける」、酷評(1&2)は「目で見るだけの映画 何も入ってこなかった!共感する事もなく感情移入する事もなく 考えさせられる事もない」「パラサイトは刺激的ではあるものの素材が調和していない感がある。最終的に富裕層も貧困層も救われず、後味も最悪な映画だった」「評判がよかったから期待してみたけど、本当につまらない作品。色々な感性があると思うがこれを面白いと評価する人が信じられない。時間の無駄。アカデミー賞もたいしたことない。」などである。

全体では称賛が多いが、そうでない評価も少なからずあり、同じ映画でも見る人によって評価が違うことがわかる。 これは本や音楽についても同様に言えることであろう。

このことから、自分が好きや感動したからと言って人に薦めると,迷惑がられることがあることを自戒しておこうと思った。(とかく教師は自分の好きな本やドラマや音楽を学生に無理やり押し付け勝ちであるので)

梅雨時の花 ―アジサイ、蓮

梅雨時の花と言えば、アジサイであろう。千葉でもアジサイの綺麗な場所が茂原に「服部農園あじさい屋敷」(ajisaiyashiki.la.coocan.jp/)などあるが、遠くに出かけること避けている今年はまだ行けていない。ただ、近所でアジサイが綺麗に咲いているところが幾つもあり、散歩の途中で楽しんでいる。

また千葉では千葉公園の大賀蓮(はす)が、梅雨時に見頃で、昨日、見に行ってきた(車で10分ほど)。極楽浄土に咲く花にふさわしく上品で心が安らぐ見事な花である。(https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/chuo-inage/ogahasu-kaika2013.html)、

「教育思想」に関する遠隔授業(第6回)

私が敬愛大学で担当している「教育原論」の授業で、「教育思想」のことを扱うとき、私はこの分野に知識がない為、いつも苦労する。ただ、過去の教育思想家の教育論を、学生に興味をもって聞かせるのは教育哲学の専門家でも、難しいのではないか。(専門過ぎても学生の興味を惹かない)。ましてやその分野の素人が教科書的な知識を提供しても面白いはずはない。

そこで  「教育原論」第6回は、WEBで配信の「講義ノート」(添付参照)で、教育思想の意義を簡単に説明し、講義資料で、敬愛大学の中山幸夫教授の西洋の教育思想家7人の的確な紹介の文章と、他のいくつかの説明を配信し(添付参照)、後はインターネットでもいくらでも調べられるので調べて、「誰か一人ないし二人の教育思想家を取り上げ、その教育思想の特質を説明しなさい」という課題を出した。

学生達は、資料を読んで、興味をもった教育思想家に関して、資料とインターネットで調べ、なかなかいい解答(リアクション)を寄せてくれた(添付参照)。多少のコピペ(転記、転写)はあるにしろ、自分の興味と一致した部分を書き出し(抜き出し)、現代の教育問題と結び付け、教育思想を考えたことが、リアクションの内容からわかる(一部以下に転載。講義ノート、講義資料は添付参照)。「今の教育の考え方が昔の教育者の思想に起源があることを知った。、教育思想をもっと学びたい」という趣旨の学生からのリアクションがいくつもあり、この方法がある程度成功したことを感じる(以下、学生のコメントの一例)

<私は以前デューイの「学校と社会」を読んだのとがある。そこでデューイの教育観に感銘を受けたのを今でも覚えている。そして、高校時代に何度も目にした『ルソー』の考え方がデューイに似ていることに今回の資料を読んで気がつき、興味を持った。ルソーは、当時のフランスの絶対王政の中で「人間は生まれながらにして自由である」と説き、現実の人々の偏見や権威や慣習などによって変質される前の自然のままの人間を意味する「自然人」を作ろうと考えた。彼は、子どもには自ら成長発達しようとする内在的な能力が備わっていると説き、子どもを大人の世界から解放しその子どもの生得的な本性の考察により教育論を展開した。ルソーは、何よりも子どもの感覚や自発性を重んじ、子どもの活動意欲を喚起し、さらにそれを発展させようと主張した。また、私はルソーの「熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ」という言葉に心を打たれた。親や教師は、子供を愛しているからと言って過度に援助を行うと、かえってそれは成長の邪魔になる場合が多くある。これは私が実際に妹とかかわる際や教師体験、そして塾講師のアルバイトでも痛感した。同時に、子どもを見守ることがどれだけ難しいことかに気がついた。だが、不安定な道を走り回って転んだ時に、初めて子どもはそのような道を走るのは危ないと気づくのである。大人が危険を予知し、走る前に止めてしまうと子どもは学べないのである。そして、ルソーのように子どもを中心とした教育を展開したデューイ。彼は、子どもが中心となり、その周りに教育についての装置が組織されていると述べ、学校を小さな共同社会と捉え、子どもにとって生活と密接に結合し、生活を通して現実社会を学ぶ場所だと考えた。デューイ・スクールでの実験授業は協力して問題解決を目指し頭も体も使い子どもの学習意欲を奮い立たせ、おまけにそれは将来の役に立つという今の日本の座学では想像のできないものであろう。私は、子供たちが大人に指図されずに、心から意欲的に学ぶ顔をいつか見てみたいと思う。すべてをデューイのような授業展開にすることは現実的ではないが、デューイやルソーの教育観を頭に入れておくだけで、将来自分が教壇に立った時にすべきことが見えてくるのではないかと思う。彼らの考え方をもっと知りたいと感じた。>