短歌・川柳について

振り返ってみると、入試科目では国語は苦手な科目だった。自分に文学的なセンスがなかったせいかもしれないが、本当の理由はわからない。今でも詩や短歌などを読んでもそのよさはよくわからない。川柳なら少しはわかるかもしれない。ただ、和歌、短歌、長歌、俳句、川柳の違いは何だかもよく知らない。

朝日新聞の毎週日曜日に「朝日歌壇俳壇」という1ページわたる欄があるが、そこを読むことはない。今回試しに少し読んでみた(8月20日、朝日新聞)。1首の短歌を除き、理解できるものはなかった。その1首は、次のようなものである。

「安全な場所からお伝えします」危険な場所にいる人のことを (東京都 上田結香)

これはマスコミの報道姿勢を少し茶化した川柳のようでもあり、優れた短歌とはいえないように思う。いずれにしろ、短歌のことはよくわからず、チャトGPTに聞いてみた。

私の質問1―和歌、短歌、長歌、俳句、川柳の違いについて教えて下さい。

ChatGPTの回答―和歌、短歌、長歌、俳句、川柳は、日本の伝統的な詩形であり、それぞれ異なる特徴を持っています。以下にそれぞれの違いを説明します。/和歌(Waka):和歌は、日本の古典文学の一部で、古代から中世にかけて主に詠まれました。和歌は、5-7-5-7-7の音数で構成され、5-7-5の部分を「上の句」(または「前の句」)とし、7-7の部分を「下の句」(または「後の句」)とします。主題はしばしば自然、愛、季節、感情などに関連しています。/短歌(Tanka):短歌は和歌の一形態で、現代でも詠まれています。短歌は5-7-5-7-7の音数で、和歌と同じく上の句と下の句から構成されます。短歌の主題は幅広く、自然、恋愛、人生の哲学などに焦点を当てることがあります。/長歌(Choka):長歌は和歌の一形態で、和歌や短歌よりも長い詩形です。長歌は、5-7の音数が交互に続いていく形式で、最初は無制限に続き、最後は2つの7音からなります。主題は多様で、祝福、祈り、自然、感情などが含まれることがあります。/俳句(Haiku):俳句は非常に短い詩形で、5-7-5の音数で構成されます。俳句は季節の感覚を捉え、瞬間の美しさや哲学を表現することが一般的です。俳句はしばしば自然や季節の要素を強調し、作者の感情を最小の言葉で表現します。/川柳(Senryu):-川柳は俳句に似ていますが、俳句よりも現実的で風刺的な要素が強調されます。5-7-5の音数の制約に従いながら、日常の風景や人間の性格、社会の風刺を描きます。川柳はしばしば笑いや皮肉を含んでいます。/これらの詩形は、日本文学の豊かな伝統の一部であり、独自のスタイルと文化的な重要性を持っています。それぞれが異なるルールや主題に従っており、異なる感情やアイデアを表現するために使用されます。

私の質問2―<「安全な場所からお伝えします」危険な場所にいる人のことを>,これは新聞に載っていたものですが、優れた短歌ですか?

ChatGPTの回答―「安全な場所からお伝えします」という文句は、短歌の典型的な形式や主題とは異なります。短歌は通常、5-7-5-7-7の音数で、自然、感情、季節などを詠む詩形です。この文句は情報の伝達や安全についての声明であり、伝統的な短歌の形式には合致しません。短歌は特定のルールに従って詠まれ、詩的な表現や感情を豊かに表現することを目的とします。したがって、伝統的な短歌の基準に合致しない限り、これを「優れた短歌」とは考えないでしょう。ただし、この文句はその文脈において有用で、情報伝達に関連するコミュニケーションや安全に関するメッセージの一部としては、非常に重要かもしれません。詩の形式としての短歌としては評価されませんが、コミュニケーションの一環としては役立つ表現かもしれません。

追記 「2024年度・採用・川柳・短歌」入選作品は、下記で見ることができる。こちらは少し理解できる。

https://toyokeizai.net/articles/photo/694642?pn=2&utm_source=msn&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&utm_content=inarticle

最近の住宅(戸建て)の特質について

チャトGPTに最近の新築戸建ての特質に関して聞いてみた。以下私の質問とチャトGPTの回答を転記する。

私の質問―最近の日本の住宅(一般の人の住む戸建ての新築住宅)の特徴に関して教えて下さい。素人の感想ですが、昔は住宅の外観を重視していたと思いますが、今の住宅では外観はシンプルで、外からの見栄えはあまり気にせず、住む人の快適さの方を重視しているように思います。窓を小さくして、塀がない住宅も多くあります。昔の家は風通し重視していましたが、今は冷暖房(空調)完備で、空気の巡回はそれが行っているように思います。外からの視点より内からの視点で、新しい住宅(戸建て)が作られているように思いますが、この認識は正しいですか。

ChatGPTの回答―あなたの感想は一般的な傾向と合っている部分がありますが、日本の住宅の特徴はさまざまな要因によって影響を受けているため、必ずしも全ての住宅に当てはまるわけではありません。しかし、以下に最近の日本の住宅の特徴について説明します。/シンプルな外観と機能性の重視: 近年の日本の住宅は、外観よりも機能性と住みやすさを重視する傾向があります。無駄なデザインを削ぎ落とし、シンプルな外観を持つことが多いです。/エネルギー効率と省エネ: 省エネルギーやエネルギー効率の向上が重要視されています。断熱材や二重窓など、エネルギー効率を高めるための設計が一般的です。また、太陽光発電など再生可能エネルギーの導入も増えています。/居住空間の最適化: 広々としたオープンな居住空間を提供することが重視されています。家族のコミュニケーションを支援し、使い勝手の良い間取りが求められています。/自然との調和: 自然環境との調和を大切にする傾向があります。庭やウッドデッキを取り入れることで、居住空間と自然をつなげる試みが行われています。/高齢者に優しい設計: 日本の人口構造の変化に伴い、高齢者向けの住宅やバリアフリー設計が重要視されています。段差を減らし、車椅子でも移動しやすい環境を作ることが考慮されています。/スマートホーム技術の導入: IoT(モノのインターネット)技術を活用したスマートホームの導入が増えています。家電や照明、セキュリティシステムなどをスマートに制御することで、快適な生活をサポートしています。/地震対策: 日本は地震が多い地域であるため、新築住宅では地震対策が重要視されています。耐震性を高める工法や設計が採用されています。/持続可能性への取り組み: 環境への配慮から、再生可能素材の使用や廃棄物の削減、リサイクルへの取り組みが行われています。/したがって、あなたの認識は一般的なトレンドを捉えているものの、すべての住宅が同じ特徴を持つわけではないことに注意が必要です。地域や家族のニーズに合わせて、さまざまなタイプの住宅が建てられています。

知人の建築家にこのチャトGPTの回答に関してのコメントをもらった。それをまとめると下記のようになる。

①住まいを建てる時の一般論としては、正しい指摘が多い。このところ、省エネ、脱二酸化炭素、環境など対策が重視されてきて、建築法令などでも規制が制度化されて来ている。② 高気密、高断熱化はそれ自体は必然的なことともいえる。同時にそれはかつての日本家屋の持っていた良さが失われてきている面もある。③ 現在は敷地が細かく分割され、敷地一杯に建てられた住宅が多い。④ 境界のブロック塀が無くなってきたことはとてもいいことだが、一方で外との関係を断つような小さな窓などが一般化している。⑤ マンションでの住み方や間取りが戸建てに移ってきている。⑥ 分譲住宅では、隣同士がほとんど同じような間取り、外観の住宅が連なることが多い。⑥ 高齢者の問題では、段差の解消、開き戸から引き戸、手すりの設置などがかなり進んできている。高齢者の身体の変化に伴って対応できるようにしておくことが大切。⑦ 住まいはそれぞれの住まい手の生活、生き方を反映するとても大切なもので、一人ひとり、家族ごとに違うもの、何とかそのために自分に合った住まいを見つける又は創っていくことがとても大切。そのような姿勢、経験を持つ建築家を見つけて相談することも必要。。

祭りのあと

 夏には、いろいろお祭りがある。それが新型コロナの5類移行で、復活している。久しぶりのお祭りゆえ、その盛り上がりもひとしおであろう。しかし、その分、祭りの後のわびしさも大きいのではないかと思う。

いつも苗場で7月下旬の3日間開催される「フジロック」も、今年は天気がよく(例年雨のことが多い)、延べ11万4千人が集まり、大変な盛り上がりだったようである。「規制解除のフジロック 人種・性別・ジャンル超え、百花繚乱、声出しが解禁され、大きな歓声が響いた。国内有数の音楽フェス、フジロックフェスティバルが、新潟県湯沢町で7月28日から3日間開かれた。前夜祭も含め、延べ11万4千人が集まった。コロナ禍の規制が解除され、ルール上、4年ぶりに元の姿へと戻った。」(朝日新聞、8月3日)

その苗場のフジロックの会場と近くのボードウォークに、フェス閉幕6日後に訪れる機会があった。フェスの機材をかたずける車を1台見たが、それ以外はフェスの開催を思わせる痕跡はほとんどなく、人も2組のボードウオーク散歩者を見ただけで、少し前に11万人の人が集ったとは思えなかった。祭りの後のさびしさ、わびしさを感じた。それで、いつものことながら、吉田拓郎「祭りのあと」(https://www.youtube.com/watch?v=n8OUm1rtS8A)を聴きたくなった。

この歌は1972年の曲で、つまり1960年代末の学生運動が終焉したころの歌で、お祭りとは学生運動を意味し、その中で憎み合い、内ゲバで死んでいた同世代への哀悼の気持ちが歌われている(あるいは聴く方がそのように取る)ようにも感じた。

お花畑のコスパ(コストパフォーマンス)

その観光地(特にお花畑)に行く価値があるのか、価値があるとしてもそこに行くコストを考えた時、行くことが適切なのか迷うときがある。また行くコストに無知で、行ってみてそのコスト高を知らされ後悔することもある。

 今回、新潟の高原で涼んだ後、高速の関越道での帰り道、人気の道の駅「川場田園プラザ」(https://www.denenplaza.co.jp/)に寄るので、関越自動車道「沼田IC」で降りた(そこから川場まで車で10分)。川場に立ち寄った後、パンフレットで見て、そこから30分で行ける「たんばらラベンダーパーク」」(https://www.tambara.co.jp/lavenderpark/)にも立ち寄ることを思い立った。そこに車で向かったが、カーブの多い山道を20分近く走り、標高1300メートルの高さまで登るとは知らなかった。入園料が一人1200円で、さらにメインのラベンダー畑に行くのに500円支払ってリフトに乗らなければならない。ラベンダーはいい香りがするものの背が低く、どちらかというと地味な花。ラベンダーにはいろいろ種類があり、今の季節に咲いているのはその1部。そのラベンダーの花畑に圧倒されるということはない。ラベンダー好きの人にとってはコスパにかなっているかもしれないが、私はカーブの多い山道、高い入場料,一部の花しか咲いていないという高いコストをかけてまで見に来るお花畑だったのかと疑問に思った。パークの側の「よくこんなとこまで来てくれました」というもてなしの気持ち(例えばリフト無料、季節割引、シニア割引)も感じられない。再度訪れる人は少ないのではないか。ただ、認知的不協和理論から言えば、「高いコスト」と「そこに行ってしまったこと」の認知的不協和を解消すべく、「そこは素晴らしいお花畑であった」と自分の認知を修正しようとはしたが、うまくいかなかった。

普段うちからよく見に行く、佐倉のチューリップ畑やコスモス畑は、家から近く、運転は平たんな道で楽だし、入場は無料だし、一面の花畑に圧倒されるし、安価で花摘みまで出来、コスパ値は高い。その他、よく見に行く行く房総や関東の水仙、桜、ネモヒラ、山ツツジ、水芭蕉、アジサイ、菖蒲、スイレンなどに比べ、今回のラベンダー畑はコスパ値が低いと感じた。認知的不協和の修正もあまり効かなかった。

村上春樹『街とその不確かな壁』(2023、新潮社)を読む

村上春樹の最新刊の長編『街とその不確かな壁』(2023,4.新潮社)を、発売日に購入しながら,最初の数十ページを読んだだけで積読状態であった。10日ほど前に読みを再開し、数日で読み終え(総ページ661ページ)、その後の旅行中に2度目を読んだ。その感想と新聞に載っている書評を転載しておく(ネタばれあり)。

村上春樹は、今71歳。この小説は40年前(1980年)に「文学界」に掲載した中編小説を、氏が新型コロナ禍で長期旅行もせず人にも会わずの3年間で、書き直したものである。最初の方は、17歳の主人公(僕)が、16歳の可愛い女の子に恋する話で(女の子も僕を好きだと言ってくれている)、村上春樹の若い頃の恋愛小説の再現かと思い、先を読み気がおこらなかった。暑さの中の暇でやっと再読を始めた。ストーリーは比較的単純ながら(同時に、幽霊が出てきたり、村上春樹特有の暗示や隠喩がたくさんあり、複雑でもある)、登場人物がいろいろ考えるので、それにつられて多くを考えさせられた。この小説には主人公(僕)の同世代はほとんど出てこず、年下の恋人や年上の尊敬する人(男性)、それに凛とした自分の生き方をする中年期の女性が二人、自閉症ぎみの少年が一人出てくる。幽霊も出てきて、壁の向こうに行き、人が影を失い、現実と架空の違いは何なのかも考えさせられる。

ネットで検索すると、いろいろコメント(書評)が出てくるが、朝日新聞記事から2つ、それぞれ共感した部分を一部転記する。

<17歳の時に深く愛したひとつ年下の少女は、本当の自分は壁のなかの街に住んでいると「ぼく」に告げ姿を消す。45歳になってなお少女の面影を追い求める「私」は、夢に導かれるように福島の山間の図書館長となり、風変わりな人々とふれあいながら夢と現実、実体と影、意識と非意識のあいだをうつろっていく。過去作のエッセンスがちりばめられつつ、時間の感覚はより鋭く研ぎ澄まされ、死者の描写には祈りに近い切実さが透けてみえる>(小澤英実 / 朝⽇新聞:2023年05月13日)

<新作長編で大幅に加筆された恋人との関係(①)についてー主人公と少女の頻繁な文通、会話、キスなどの初恋の内実が書かれている。少女は『ノルウェイの森』の直子を髣髴させる心の繊細な人で、中編では亡くなるのだが、今回の長編ではそれが「突然の音信不通」に書き換えられた。彼女が16歳のまま美化されるのに対し年をとっていく男が、心中の少女に恋々とするさまも描かれる。/ さらに長編の第二部では、壁の中から戻ってきた「私」の図書館長としての生活、そこでのコーヒーショップ経営者の女性や、不思議な元図書館長との出会い、第三部では壁の中に残った「私」のその後と、新たな決断が書かれる。そう、本作で「私」は二つに分裂するのである。/ 中編から引き継がれた問題として、「壁のどちら側が内で外なのか?」「どちらが架空で現実なのか?」という認知論的な問い(②)がある。/ 第二部で、「私」はこう思う。「私の記憶していることのどこまでが真実で、どこからが虚構なのか? どこまでが実際 にあったことで、 どこからが作り物なのか?」壁の内と外の世界を往還する主人公は、つねに自分は「本体」(実体)なのか「影」(仮象)なのか思案することになる。/ 愛読者としては、「手」と「品」(舞台設定、プロット、キャラクター、道具立てなど)にもう少し変化がほしい気はする。「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」に始まり、『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』『1Q84』『多崎つくると巡礼の年』などで繰り返し書かれてきた「百パーセントの」人間関係の純度や、その濃密なやりとり、大切な人を突然失うこと、深い喪失感、集合無意識などについて、今回深化したバージョンを読めたのはよかったと思う一方、またもや二つの世界の往還で終わってしまったので、「この先が読みたい!」と思ってしまう。/ 村上春樹ならではの、純度が高いゆえに死に瀕しかねない閉鎖的関係から主人公が俗世に帰還するという展開は、『ノルウェイの森』における直子から緑との関係への転換ですでに書かれている。『街とその不確かな壁』で後者の役割を担うのは、コーヒーショップ経営者の女性だ。彼女と主人公との関係は今後どうなるのか? いい年をした大人同士の完璧でない物語の本編は、『ノルウェイの森』のラストで主人公が緑に電話をかけた後に始まるのではないだろうか。>(鴻巣友季子の文学潮流(第1回)朝日新聞2023.04.27、  https://book.asahi.com/article/14893746)