村上春樹『街とその不確かな壁』(2023、新潮社)を読む

村上春樹の最新刊の長編『街とその不確かな壁』(2023,4.新潮社)を、発売日に購入しながら,最初の数十ページを読んだだけで積読状態であった。10日ほど前に読みを再開し、数日で読み終え(総ページ661ページ)、その後の旅行中に2度目を読んだ。その感想と新聞に載っている書評を転載しておく(ネタばれあり)。

村上春樹は、今71歳。この小説は40年前(1980年)に「文学界」に掲載した中編小説を、氏が新型コロナ禍で長期旅行もせず人にも会わずの3年間で、書き直したものである。最初の方は、17歳の主人公(僕)が、16歳の可愛い女の子に恋する話で(女の子も僕を好きだと言ってくれている)、村上春樹の若い頃の恋愛小説の再現かと思い、先を読み気がおこらなかった。暑さの中の暇でやっと再読を始めた。ストーリーは比較的単純ながら(同時に、幽霊が出てきたり、村上春樹特有の暗示や隠喩がたくさんあり、複雑でもある)、登場人物がいろいろ考えるので、それにつられて多くを考えさせられた。この小説には主人公(僕)の同世代はほとんど出てこず、年下の恋人や年上の尊敬する人(男性)、それに凛とした自分の生き方をする中年期の女性が二人、自閉症ぎみの少年が一人出てくる。幽霊も出てきて、壁の向こうに行き、人が影を失い、現実と架空の違いは何なのかも考えさせられる。

ネットで検索すると、いろいろコメント(書評)が出てくるが、朝日新聞記事から2つ、それぞれ共感した部分を一部転記する。

<17歳の時に深く愛したひとつ年下の少女は、本当の自分は壁のなかの街に住んでいると「ぼく」に告げ姿を消す。45歳になってなお少女の面影を追い求める「私」は、夢に導かれるように福島の山間の図書館長となり、風変わりな人々とふれあいながら夢と現実、実体と影、意識と非意識のあいだをうつろっていく。過去作のエッセンスがちりばめられつつ、時間の感覚はより鋭く研ぎ澄まされ、死者の描写には祈りに近い切実さが透けてみえる>(小澤英実 / 朝⽇新聞:2023年05月13日)

<新作長編で大幅に加筆された恋人との関係(①)についてー主人公と少女の頻繁な文通、会話、キスなどの初恋の内実が書かれている。少女は『ノルウェイの森』の直子を髣髴させる心の繊細な人で、中編では亡くなるのだが、今回の長編ではそれが「突然の音信不通」に書き換えられた。彼女が16歳のまま美化されるのに対し年をとっていく男が、心中の少女に恋々とするさまも描かれる。/ さらに長編の第二部では、壁の中から戻ってきた「私」の図書館長としての生活、そこでのコーヒーショップ経営者の女性や、不思議な元図書館長との出会い、第三部では壁の中に残った「私」のその後と、新たな決断が書かれる。そう、本作で「私」は二つに分裂するのである。/ 中編から引き継がれた問題として、「壁のどちら側が内で外なのか?」「どちらが架空で現実なのか?」という認知論的な問い(②)がある。/ 第二部で、「私」はこう思う。「私の記憶していることのどこまでが真実で、どこからが虚構なのか? どこまでが実際 にあったことで、 どこからが作り物なのか?」壁の内と外の世界を往還する主人公は、つねに自分は「本体」(実体)なのか「影」(仮象)なのか思案することになる。/ 愛読者としては、「手」と「品」(舞台設定、プロット、キャラクター、道具立てなど)にもう少し変化がほしい気はする。「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」に始まり、『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』『1Q84』『多崎つくると巡礼の年』などで繰り返し書かれてきた「百パーセントの」人間関係の純度や、その濃密なやりとり、大切な人を突然失うこと、深い喪失感、集合無意識などについて、今回深化したバージョンを読めたのはよかったと思う一方、またもや二つの世界の往還で終わってしまったので、「この先が読みたい!」と思ってしまう。/ 村上春樹ならではの、純度が高いゆえに死に瀕しかねない閉鎖的関係から主人公が俗世に帰還するという展開は、『ノルウェイの森』における直子から緑との関係への転換ですでに書かれている。『街とその不確かな壁』で後者の役割を担うのは、コーヒーショップ経営者の女性だ。彼女と主人公との関係は今後どうなるのか? いい年をした大人同士の完璧でない物語の本編は、『ノルウェイの森』のラストで主人公が緑に電話をかけた後に始まるのではないだろうか。>(鴻巣友季子の文学潮流(第1回)朝日新聞2023.04.27、  https://book.asahi.com/article/14893746)