祭りのあと

 夏には、いろいろお祭りがある。それが新型コロナの5類移行で、復活している。久しぶりのお祭りゆえ、その盛り上がりもひとしおであろう。しかし、その分、祭りの後のわびしさも大きいのではないかと思う。

いつも苗場で7月下旬の3日間開催される「フジロック」も、今年は天気がよく(例年雨のことが多い)、延べ11万4千人が集まり、大変な盛り上がりだったようである。「規制解除のフジロック 人種・性別・ジャンル超え、百花繚乱、声出しが解禁され、大きな歓声が響いた。国内有数の音楽フェス、フジロックフェスティバルが、新潟県湯沢町で7月28日から3日間開かれた。前夜祭も含め、延べ11万4千人が集まった。コロナ禍の規制が解除され、ルール上、4年ぶりに元の姿へと戻った。」(朝日新聞、8月3日)

その苗場のフジロックの会場と近くのボードウォークに、フェス閉幕6日後に訪れる機会があった。フェスの機材をかたずける車を1台見たが、それ以外はフェスの開催を思わせる痕跡はほとんどなく、人も2組のボードウオーク散歩者を見ただけで、少し前に11万人の人が集ったとは思えなかった。祭りの後のさびしさ、わびしさを感じた。それで、いつものことながら、吉田拓郎「祭りのあと」(https://www.youtube.com/watch?v=n8OUm1rtS8A)を聴きたくなった。

この歌は1972年の曲で、つまり1960年代末の学生運動が終焉したころの歌で、お祭りとは学生運動を意味し、その中で憎み合い、内ゲバで死んでいた同世代への哀悼の気持ちが歌われている(あるいは聴く方がそのように取る)ようにも感じた。

お花畑のコスパ(コストパフォーマンス)

その観光地(特にお花畑)に行く価値があるのか、価値があるとしてもそこに行くコストを考えた時、行くことが適切なのか迷うときがある。また行くコストに無知で、行ってみてそのコスト高を知らされ後悔することもある。

 今回、新潟の高原で涼んだ後、高速の関越道での帰り道、人気の道の駅「川場田園プラザ」(https://www.denenplaza.co.jp/)に寄るので、関越自動車道「沼田IC」で降りた(そこから川場まで車で10分)。川場に立ち寄った後、パンフレットで見て、そこから30分で行ける「たんばらラベンダーパーク」」(https://www.tambara.co.jp/lavenderpark/)にも立ち寄ることを思い立った。そこに車で向かったが、カーブの多い山道を20分近く走り、標高1300メートルの高さまで登るとは知らなかった。入園料が一人1200円で、さらにメインのラベンダー畑に行くのに500円支払ってリフトに乗らなければならない。ラベンダーはいい香りがするものの背が低く、どちらかというと地味な花。ラベンダーにはいろいろ種類があり、今の季節に咲いているのはその1部。そのラベンダーの花畑に圧倒されるということはない。ラベンダー好きの人にとってはコスパにかなっているかもしれないが、私はカーブの多い山道、高い入場料,一部の花しか咲いていないという高いコストをかけてまで見に来るお花畑だったのかと疑問に思った。パークの側の「よくこんなとこまで来てくれました」というもてなしの気持ち(例えばリフト無料、季節割引、シニア割引)も感じられない。再度訪れる人は少ないのではないか。ただ、認知的不協和理論から言えば、「高いコスト」と「そこに行ってしまったこと」の認知的不協和を解消すべく、「そこは素晴らしいお花畑であった」と自分の認知を修正しようとはしたが、うまくいかなかった。

普段うちからよく見に行く、佐倉のチューリップ畑やコスモス畑は、家から近く、運転は平たんな道で楽だし、入場は無料だし、一面の花畑に圧倒されるし、安価で花摘みまで出来、コスパ値は高い。その他、よく見に行く行く房総や関東の水仙、桜、ネモヒラ、山ツツジ、水芭蕉、アジサイ、菖蒲、スイレンなどに比べ、今回のラベンダー畑はコスパ値が低いと感じた。認知的不協和の修正もあまり効かなかった。