「仮定法の神」について

社会学者の大澤真幸が、宮崎駿の漫画「風の谷のナウシカ」の読み解きの中で、「仮定法の神」について、ルーマンの引用ということだが、とても興味深いことを言っている。(以下。朝日新聞デジタルより一部転載)

 「それを説明するには、まずは社会学者のニクラス・ルーマンも引用している『12頭目のラクダ』というアラブの寓話(ぐうわ)について、お話しする必要があります」/ 「あるお金持ちが亡くなる時、息子3人に『長男に財産の半分を、次男には4分の1を、三男には6分の1を与える』という遺言を残しました。父親の遺産は11頭のラクダでしたが、11は2でも4でも6でも割り切れず、父親の言うとおりの分配はできそうにない」/ 「困った兄弟がある賢者に相談したところ、賢者は『それでは、私のラクダを1頭加えよう』と提案した。12頭になれば、長男は6頭、次男は3頭、三男は2頭できれいに分配できる。残った1頭は賢者の元に返して、めでたしめでたし、というわけです。賢者が加えたもう1頭のラクダこそ、僕のいう『仮定法の神』に相当する存在です」/「12頭目のラクダは、問題解決のためには暫定的に必要な存在ですが、最終的には不要となる。それと同じように、『神』という強力な呪縛から人々が自由になるには、『もう一つの神』が暫定的に必要となるのではないでしょうか」/ 「『ナウシカ』の作中では、トルメキアや土鬼の戦争は、シュワの墓所が握る『生命を操る技術』の争奪戦という面があった。シュワの墓所という『神』の存在が、逆に世界を破滅の淵へと追いやっていたわけです」/「その神を駆逐するには、巨神兵という『もう一つのとんでもない神』が、どうしても必要だった。巨神兵は自らを『調停者』『裁定者』と称する。まさしく『神』のイメージです。そして、巨神兵は、シュワの墓所を破壊した後、『12頭目のラクダ』のように役割を終えて消滅します。結果的には巨神兵がいたからこそ、あの物語は終着点にたどり着き、『神なき世界』を実現できた」/(中略)/ 「『シュワの墓所』が、人々を自ら定めた計画通りの未来へ導こうとしたように、資本主義を自明の前提と考える限り、僕たちは『資本主義の定めた道』を自動的に歩み続けざるをえない。それ以外の可能性に気づくには、資本以外の『神』を想定し、その神によって資本主義を相対化するより他にありません」/(後略)(https://digital.asahi.com/articles/ASP3953TTP36UCVL004.html?iref=pc_ss_date_article

この『12頭目のラクダ』というアラブの寓話は、有名な話なのかもしれないが、私は知らなかった。11頭に1頭足すことにより、難題が解決し、足した1頭ももとに戻すという考えに感心する。さらにこの足す1頭が、「仮定法の神」で、例えば、資本主義という「神」に対する、共産主義という「神」で、それを足し問題が解決した暁にはもとに返す(消滅する)という考えも面白い。

漫画「風のナウシカ」について、識者の読み解きを記者がまとめたものが、5月4日、5日の朝日新聞朝刊に掲載されている(短いせいか、説明不足の文章で何を言っているのかわからないところもあるが)。いろいろな解釈の出来る漫画であり、また漫画とアニメでは解釈が全く違う場面があるというのも興味深い。

季節の花(その5)

今日(5月3日)は稲毛海浜公園にある千葉市の「花の美術館」(https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/3182/)に行った(家から車で20分弱)。連休中で有料駐車場は混んでいたが、少し離れた空いている無料駐車場に車を停め、20分ほど海岸沿いを歩いた。海岸には、かなりの人が出ていたが、あいにく風が強く、テントも飛ばされそうで浜遊びを楽しむという感じではなかった。

「花の美術館」は、温室の建物で中にいろいろな花が生育しているが、その中庭や外も様々な花が楽しめる。外は今の季節は、バラやポピーが綺麗。中は、ジキタリス、ストック、アジサイ、ランなどがアレンジされ咲いていた。中庭には、上品なシャクヤクと春のコスモスのような花=アグロステンマが花時で見とれてしまった。(この2つは、今度うちの庭にも植えようと思った)

このように季節の花に魅かれ、つい時間があるとそれを見に行きたくなるが、草木や花に魅かれるのは歳のせいかもしれない。若い時は、草木や花に興味はなかったように思う。また、歳をとったからといって誰でも草木や花に皆惹かれるわけでなく、惹かれるのは精神的に悩み、何かの埋め合わせのようなものを必要としているのかもしれないとも思う。周囲の人(例えば卓球仲間)に聞いても、バラ園を見に行ったり、「花の美術館」に行ったりという話をほとんど聞かない。

江藤淳は『成熟と喪失』という名著の中で小島信夫 の『抱擁家族』に言及し「外部の自然は、非日常的な、きわめて特権的な瞬間しか登場人物の意識にのぼらない。(それは妻に不貞を告白されて)、日常生活の次元からものの次元につきおとされた俊介の眼に映じた暁方の庭である」と書いている。このように、日常性の危うさを感じる人が、草木や花といった自然に眼が行くのかもしれない。(逆に別の箇所で)江藤淳は「むしろ作者は描くべき自然を奪われ、人間に集中することを余儀なくされている」とも述べている。(この指摘に従えば)自然に関心がない人は、人工的なものに浸食され、自然を奪われ、人間(関係の悩み等)に集中することを余儀なくされているとも考えられる。

季節の花(その4)

今日から早(はや)5月。少し前まで寒く冬の寒さを感じていたと思ったら、早くも初夏の5月である。さわやかな空気の中、朝9時の開園に合わせて隣の八千代市にある「京成バラ園」にバラを見に行った(車で30分弱)。そこは1,600品種10,000株種のバラが植えてある広いバラ園で見応えがある。(https://www.asoview.com/note/657/

「バラのアイスクリームが美味しいよ」と普段ゲーム漬けの子(6歳と8歳の男の孫)も誘って行った。まだバラは5分咲きくらいで、バラの饗宴には程遠かったが、少ない人の中で、ゆっくりバラを鑑賞できた。子ども達はバラの花より、バラの香りのするアイスクリームの方に魅かれたようだが。