大学のゼミでの会話、私語

教室での私語というのは大人数の大教室で起こることが多く、少人数の教室や少人数のゼミでは起こることは少ない。

但し、少人数のゼミでも私語が多くて困ることがある。それは私語を許す教員に問題がある場合が多い。

ゼミで、講義者や発表者の発言にきちんと耳を傾け、それへの共感や反論や発展的な議論を展開する技法を身に付をけることは、将来の就職試験での集団面接や就職後の会議に役立つことを学生に伝え、その訓練を厳しくする必要がある。それを怠ると、ゼミでも私語は起こる。ーこれは正論であろう。しかし、それ以外に、学生の会話の特性にもよるような気がする。

学生達の集団での会話を聞いていると、お笑いタレントのバライエティ番組の会話のようである。学生の会話にはいろいろな突っ込みが入り、笑いに満ちている。

敬愛の1年生のゼミで、各自15分くらいの持ち時間で好きなことを話してもらったことがある。私の想定では、最初にスピーカーが10分程度まとまった話をして、その後5分程度の質疑が行われるものと考えた。

ところが、実際は、話し手の少しの発言に、突込みが入り、その受け答えで話しが盛り上がり、大変にぎやかな会話の場となるのが常であった。誰かの話を静かに聞くというのは、学生達にとってそんな居心地のよいものではなく、わいわい言いながら、人の話を聞くのが自然状態に近いのではないかと思った。

人の話を静かに聞き、それに質問や反論するという討論や会議のルールを身に付けさせる場が、大学のゼミであろう。しかし、その方法を強要すると、ゼミは発表者と教員とのやり取りだけで終わってしまい、不活発なものになることも多い。学生の会話の特性を生かした、ゼミができないものかと苦労する。

 

 

 

「意欲のない」子ども・青年について

「学校教育と無気力な子ども」という1993年の『児童心理』に書いた私の文章を今の学生も読んでくれて(学生のレポート)、「子どもの無気力は、今の社会への賢い適応」「青年期になると、大人の目の触れないところで生き生きしている」という文章などに、共感してくれることが多い。

 しかし、若者や子どもの意欲や無気力について、もっと以前に、漱石が鋭いことを言っている。フリーターの走りと言われる(?)「それから」の代助の言い分を、改めて今日の新聞で読み、感心する。 

<彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だといわれていた。彼の解剖によると、事実はこうであった。――人間は熱誠を以て当ってしかるべきほどに、高尚な、真摯(しんし)な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、しからざれば、熱誠を衒(てら)って、己(おの)れを高くする山師(やまし)に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とはいえまいが、よりよく人間を解剖した結果には外(ほか)ならなかった。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、そのあまりに、狡黠(ずる)くって、不真面目で、大抵は虚偽を含んでいるのを知っているから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかったのである。と、彼は断然信じていた。>(「それから」朝日新聞、727日)