藤原新也近著『メメント・ヴィータ』(双葉社、2025)には、いくつか心に残るフレーズがある。それを書き留めておきたい。
「アメリカには移民たちが幌馬車で東から西へ移動していった歴史がある。幌馬車で全米を旅した祖先のDNAみたいなものが、彼らの中のどこかに残っている。貯めたお金を投入して、白髪になったご夫婦がモーターホームを走らせあちこちを旅するという風景が展開されるいるわけです」(323頁)。
「ある老人は『息子が自分より先に逝った』と話すんです。息子が他界したのになぜ自分が生きているのかという不条理を感じながらノマドの生活を送っている。だから、自分に誰かを助けられることがあったら助けたり、人に優しくしたりすることによって、自分の心の傷が癒されているんだという話をする」(330頁)。
「僕もこれまでいろいろな旅をしてきましたが、結局旅にしても人生にしても1つの成果とか達成があるとするなら、金とか地位とか名誉より、人生の中においてどれだけいいシーンに出会ったかにということに尽きるんです。そのシーンの積み重ねがどれくらいあるか。それは人とのまじわりでもいいんだけど、どれだけのシーンに出会えたか。それが人生の中での1つの達成だと思う」(331頁)。
自分のDNA、人を助けることで自分の傷を癒す、いいシーンとの出会い―これらのことを自分事としていろいろ考えさせられた。
追記 「メメント・ヴィータ」([著]藤原新也)に関しては、本日(7月5日)の朝日新聞にも書評が掲載されている(秋山訓子評、一部転載)
< 何十年も前、著者の海外撮影旅行に同行する僥倖を得た。朝から晩まで間近で見た著者は、静かでとても優しい人だった。それも数々の修羅を経て至った深い優しさで、相手の傷をわかる人のように思えた。/ 著者が、相手と通じ合う手段が「撮影」だった。本書にあるように、「撮影」とは著者が相手との関係を作るための行為。相手と気持ちが「シンクロ」し、「奇跡」のような出会いの一瞬を保存するための。/ 1983年の『メメント・モリ』(ラテン語で「死を想〈おも〉え」)に連なるが、不安定化する国際情勢やパンデミックに見舞われる「死に満ちた世界」だからこそ、今意識すべきは「生(ヴィータ)」。五感、いや第六感までも駆使して著者がとらえた世界のありようだ。/ 表題と同じ最後の一編。現代社会の闇と病巣の奥底に分け入り、点と点を鮮やかにつなげてみせた慧眼か、あるいは大暴走か。読む人で判断が分かれるだろう。いずれにしても、著者にしか洞察できず、たどりつけない圧巻の境地なのだ。>◇ふじわら・しんや 1944年生まれ。写真家・作家。木村伊兵衛写真賞、毎日芸術賞を受賞。『インド放浪』『東京漂流』など。