宝くじ

遊びには4種類があると言われる。「競争」「模擬」「めまい」「運」の4つである。
そのうち、「競争」と「模擬」は意思を働かせる能動的な遊びであるのに対して、「めまい」と「運」は意志を働かせることのない受動的な遊びなので、近代ではあまり奨励されない。
今人気のスポーツの野球とサッカーを比べると、「競争」な要素はどちらも強いが、勝敗を分けるのはチームの強さだけでなく、ボールがゴールにうまく入るかどうかの「運」によるところも大きい。サッカーの面白さは、偶然が重なりゴールして点が取れるかどうか、つまり「運」にかかっている部分もあるように思う(その点、テニスは、ほとんど番狂わせはなく、腕の上位者が勝ち、ハラハラ感がなく、人気がいまいちである)。このように考えると現代は、「運」も尊重されている
「運」によって決まる一番のものは、宝くじであろう。 多くの人が「宝くじ」を買っているが、「宝くじ」を買うことに、人は抵抗感がないのであろうか。
私自身は、ミーハー なので、人がやっていることは何でもやって見たいという気持ちがある。そこで、宝くじを時々買うことがある。でも、人生を宝くじに託していいのだろうかと思い、つまり後ろめたい、恥ずかしい気持ちがいつも付き纏う。人生を、意思の力で切り開く可能性がなくなった人(つまり老人)が、宝くじに運を託す、そのようなものと、私は宝くじを考えている。(だから、「歳から考えて、君には買う権利がある」という声も、どこかから聞こえてくる)。
別の見方として、人生の多くは、運によって決まる部分が多いといわれる。社会的地位を決めるのも、親の地位や本人の能力や努力や学歴ではなく、「運」だという実証研究もある。それを考えれば、人生は「運」に満ちているのだから、「宝くじ」も、いいかもしれない。
 

浜崎あゆみのアンドロイドのような人工的仮面の意味するもの

 今日の東京成徳大学「青年文化論演習1」では、先週に引続き、歌(J-ポップ)の分析で、浜崎あゆみの「Duty」や「Vogue」の歌詞を考察した藤原新也のもの(『名前のない花』、東京書籍)を取り上げた。
藤原新也は、浜崎あゆみが「喜怒哀楽の感情の見えない完璧なまでのヒューマノイドな仮面を被ったまま、彼女はきわめて人間的な、時には古風とさえ言える完璧なまでのスタンダードな詞を書き、歌っている」と考察し、その様な外面の「健全な無表情」は、1990年代の「時代の抑圧への防御規制として身につけたもの」としている。
「Duty」や「Vogue」の歌詞の内容は、恋歌と読むのは平凡で、過去に美しく花開いた自分(浜崎)への郷愁、諦観をうたっている、と解釈している。
「90年代,『ひきこもり』が象徴するように、時代の、そして個人の未来図がまったく描けなくなったこの閉塞時代にあって」「幼態成熟としての身体や文化がこの社会の中枢を形作くりつつある」としている。
浜崎あゆみが一世を風びした1990年代は、若者たちにとって先の見えない閉塞の時代だったとすると、今の2010年代は、若者たちにとってどのような時代なのであろうか。演習に参加している5名の学生に、これから時代は、君たちにとって希望の持てる時代なのかどうかを尋ねた。すると5名とも、大学時代以上に楽しい希望のもてる人生が待っているだろうという楽観的な予想を述べてくれた。震災や経済的不況など、先行き暗いニュースが言われる中で、今の若者が、あっけらかんと、未来への希望を述べてくれるのは、せめてもの救いである。是非、これらを実現してほしい。「予言の自己成就」ということもあるので、「希望を持てば、それが実現する」可能性も高まる。
今日も、浜崎あゆみの歌は、学生の持っているスマ-トホンから、ユーチュ-ブで、聞かせてもらった。

追加(藤原新也 CATWALK 5月30日より転載)

私は十年ほど前に浜崎あゆみの歌詞と私の写真のコラボをしている。
このオファーがあったとき、浜崎のことをサイボーグみたいな厚化粧をした女の子程度のことしか知らなかったからあまり乗り気ではなかった。
とりあえずそれまでのCDを全部送ってもらうことにして、一日かけて全部何度も聴いた。
非常に面白かった。
この子の存在は単純なものではなかった。私はこの子の中にある、ペルソナ的性格にひかれた。
ルックスはあのようにサイボーグのようだが、彼女の書く歌詞は実にウエットだった。ある歌詞などは与謝野晶子を髣髴とさせた。
と同時にその歌詞の中にある彼女の個人的な“痛み”に気づかされた。
彼女は幼児のころ父親が家を出て行っている。
その痛みは彼女のヒット作「Tddy Bear」の中に如実に現れている。

♫あなたは昔言いました
目覚めれば枕元には
ステキなプレゼントが置いてあるよと
髪を撫でながら
私は期待に弾む胸
抱えながらも眠りにつきました
やがて訪れる夜明けを
心待ちにして
目覚めた私の枕元
大きなクマのぬいぐるみいました
隣にいるはずのあなたのと引き換えに

当時浜崎を聴く子らはこれを失恋歌として聴いていた。
しかしそれは違うなと思った。
離れて行く彼氏が彼女の枕元にクマのぬいぐるみを置いて立ち去るだろうか。
それは失恋歌ではなく、父親との別れ歌だろう。
そう思った。
浜崎の歌にはそのようにいつも喪失した父への想いが通奏低音のように流れている。
彼女が自分の身体をサイボーグのように無表情なものにするのは、それは心の痛みを隠す仮面のようなものだと言える。
その仮面をつけて歌う父親不在歌はあの当時の多くの少女の心に共鳴した。
それは実際に父親を失った子のみならず、父親が居るにも関わらずそこに父親が居ない、いわゆる父性不在という時代を巻き込んだ現象であるとも言える。