戦争について

昨日(8月15日)は、終戦記念日で、テレビでも新聞でも戦争のことが取り上げられていた。
高校の社会科教師のK先生から「最近のテレビでは、NHKの戦争関係の番組が、なかなか見応えのあるものがありましたね。(「本土空襲・全記録」「731部隊の真実」「戦慄のインパール」など) いろいろ最近の発見や資料が使われているようで、なかなか良くできていると思いました。」というメールをいただいた。
終戦記念日と言えば、韓国の人が、8月15日を「戦争の勝利を祝う日」と言っていたのを聞いて、ショックを受けたことがある。日本の視点だけから、戦争のことを考えると、間違うことになる。
今日(8月16日)の朝日新聞の夕刊で映画作家の想田和弘氏が、戦争は非合理なものだと書いていた。その馬鹿げた不合理さを阻止する方策を探らなければいけない。(下記に一部転載)

<米国・トランプ氏と北朝鮮・金正恩氏の間の緊張が高まっている。しかしロジカルに考えれば、両国には戦争するための合理的理由やメリットがないので、戦争になる可能性は低い。(中略) 理屈的にはそうなる。しかしそれでも僕は不安を感じてしまう。なぜなら、人間とは必ずしも合理的に行動する生き物ではないからだ。(中略) 人間とは、ときに非合理的に行動し、自滅しかねない生き物なのだと思う。だからこそ様々な問題が起きる。国同士の関係だって同様だろう。(中略)人類の歴史を振り返っても、合理的な理由とメリットに基づいて行われた戦争を、僕は思いつくことができない。先の二つの世界大戦も、一見もっともらしい大義名分に基づき開始されたが、それらは結局、参加した国すべてに凄まじい破壊と殺戮を招いただけで、得をした国などなかったはずだ。要は徹頭徹尾、愚かな行為であったのだ。(中略)あらゆる戦争は非合理的感情に支配された破滅的な愚者によって起こされ、彼らに非合理的に従ってしまう大勢の人々によって遂行されるのである。>(想田和弘)

追記 私の戦争観は、下記。
① とにかく戦争は悪、どんな大義名分も無意味。
② 戦争は、必然的に、非人間的な残酷な行為を伴う
③ その戦争(戦闘)に参加した人が、その戦争の非人間な行為(たとえば、無抵抗な市民、女、子どもも殺す)から精神の変調をきたし、その後の人生を狂わしていく(そのようなベトナム帰りの帰還兵を扱った映画や小説は多い)

海外体験について

子どもたちの海外体験は、いつの時期にどのような形で行うのが、効果的なのであろうか。私はこの分野には疎く、あまり語る資格がないが、少し考えてみたい。
一つは幼い時あるいは若い時期の海外体験ほど、効果があるのではないか。うちでは
中1の長女と小5の次女が夏から1年間、私の在外研究(wisconsin ,madison)に同行し、アメリカの学校に通ったが、小5くらいまでが、ネイティブのように語学を学ぶ限度のような気がした。
二つ目に、主体的参加の大切さ。南山中高の教師で、生徒の海外でのホームステイも担当している上智の卒業生の和田徹也氏より、最近の実践報告(「年報」)を送っていただいた。それは、ホームステイ先で、家族の名前の由来を尋ねるというプロジェクトの報告で、子どもの名前を付ける時の考え方が、日本とオーストラリアでかなり違い(たとえば、オーストラリアではあまり意味を考えず、音(発音)を重視するなど)、日豪の文化の違いに、生徒たちは自ら尋ね、思いをめぐらしたというもの。高校の時の海外でのホームステイ体験は、2週間ほどの期間とはいえ、異国で自力ですべて主体的にやっていかなくてはならず、生徒に大きな影響を与えていることがわかる。
三つ目に、大学時代に海外に行くというのは、どうだろうか。留学は効果があると思うが、短期の海外旅行や教師の引率する海外体験(旅行)では、よほど工夫しないと、受身で何も主体的な活動や意識ははたらかず、多少の見聞は広がっても効果は薄い形で終わってしまうのではないか。
ただ、海外の大学で4年間過ごすと、日本に帰ってきてからの適応が難しいとも聞く。日本の学部教育、学生文化は独特なものがあり、そこで学んだ潜在的カリキュラムは、その後の日本の企業や社会の中で生きていくのに、必要な態度を身にさせているという。日本で将来生活するのなら、留学は、学部時代ではなく、大学院時代の方がいいという説もある。
しかし、これは、今は違うかもしれない。これからのグロバル化した社会の中で、子どもたちにいつ海外体験をさせるのか親たちも迷う時代である。

学校社会学研究会 第35回のお知らせ (再掲)

学会とは別に、有志でいろいろな研究会を作り、会合を持ち、真摯且つ気楽な議論をすることがよくなされている。ただ、そのような会は、外からの縛りがないだけに、長続きせず短期で終わることも多い。今から35年前に発足した「学校社会学研究会」は、故清水義弘先生が学校を研究する教育社会学の研究者に声をかけて、毎年夏に合宿形式で濃い議論を展開してきたものである。その会は、毎年10人~50人くらいの参加があり、35年の長きに渡り続いてきた。 私もここ何年か世話役のようなことはやってきたが、よくこれまで続いたと思う。はっきりした代表や役員というものがなく、また誰がメンバーかもはっきりしないアバウトな会である。年会費もない。 2日間にわたり学校の社会学的研究に関する水準の高い発表がたくさんあり、有意義な議論が展開される。参加費は500円で、実質的に公開で開催される。興味をもたれたら、当日ふらりと訪れるといい。

学校社会学研究会 第35回のお知らせ

日時 2017年 8.24(木)〜8.25(金) 会場:学習院大学 目白キャンパス(南2号館401室) JR山手線「目白」徒歩30秒 http://www.univ.gakushuin.ac.jp/access.html 参加費 500円

8月24日(木) 12:30〜   受付 13:00〜13:05 開会式 13:05〜13:45 野崎与志子  「ジェンダーと高等教育」 13:50〜14:35 刘荟 (中央大院生)「中国における公立学校間の格差問題:江酉省の重点高校と非重点高校の比較調査から」 14:40〜15:25 加藤幸次「カリキュラム・マネジメントで期待されている学校と地域の連携・協力のあり方について」 15:40〜16:25 児玉英明「『はいすくーる落書』を読む:教育困難校の教育学」 16:30〜17:15 小暮修三「国立大学教員のかかえる今日的問題」 17:20〜18:05 鷲北貴史「おばか世界のクランとトライブもしくは、大教室でのアクティブ実践」 18時30~ 懇親会(揚子江:目白)会費4000円

8月25日(金)  8:30〜     受付 8:50〜9:35 井口博充「留学生に教える日本社会の多様性:実践レポート」 9:40〜10:25 阿部智美(中央大院生)「都内私立高校生が語る『学校化社会』での葛藤:不本意入学者の語る『仕方ない』に着目して」 10:30〜11:15 白石義郎「音楽部活の物語構造」 11:20〜12:05 坪井龍太「18歳選挙権と主権者教育:特別支援学校の投票教育は主権者教育になりうるか」 12:10〜12:55 山本雄二「校内暴力と中和の技法」 総会 13:00〜13:15

問い合わせ先  井口博充 hi2@buffalo.edu

学校社会学研究会第35回プログラム

 

テレビドラマgleeについて

知り合いで家にテレビがない(テレビを置かない)人が何人かいる。これはとても賢い選択だと思う。私の場合、育った家に白黒テレビが置かれのは中学生の時の為、日常的にテレビを見るという習慣はなく、今でもみるテレビと言えば、ニュースとNHKの朝ドラくらいである。
しかし、ここ1週間家にいることが多く、退屈でテレビをつけ、ネットフリックスで、たまたま出てきたgleeというアメリカのテレビドラマをみた.…

gleeについては何の知識もなく、予告のあらすじから、よくある不良の高校生が教師の力で一致団結し努力し音楽のコンテストで優勝し更生する映画と思いみた。ところが、1話はそんな感じで終わったが、その続きがあるというので見続けたが、何話も続き、なかなか終わらない。
それぞれスト―リーは最初「なんだかな」と思ったが、段々その先どのような展開になるのかハラハラし、歌とダンスがとても上手で、次もみたくなる。これまでに見続けた時間は10時間以上になるように思う。
ネットで調べるとgleeは、とても有名なアメリカのテレビドラマシリーズで、121話まであるという。日本で今これがどのくらいみられるのか、わからないが、これにハマると危ない。家にテレビのない人が、羨ましい?(ネットフリクスは、テレビがなくても他の機器で見られるので、厳密にはこの言い方は正しくないが)

これはアメリカの公立高校が舞台でであり、アメリカの高校生の生徒文化の実際がわかる。gleeでは、アメリカの高校の授業場面は、あまり出てこないが、部活動(チアリーダー、アメリカンフットボール、合唱部)の場面と、校長室、カウンセリング室、食堂、廊下がよく出てくる。一番出てくるのは、合唱とダンスの練習と発表会、ロッカーのある廊下の生徒たちの人間模様、人間関係である。スクール・カーストが1つのテーマのようである。属している部活のステイタスにより生徒のカーストが決まる。チアリーダーやアメフットはカーストが高く、合唱部は最低のカーストに属し、皆から馬鹿にされる(廊下を歩いていると飲み物をかけられたりする)。ただ、対外試合・イベントに勝つことにステイタスは上がるので、皆勝利を目指して必死になる。生徒の多様性もすごい。人種(白人、黒人、ユダヤ人、アジア系)、肌の色、宗教も違い、ゲイ、母子家庭、父子家庭、障がい、妊婦も普通である。歌われる歌の歌詞が、ほとんど「自分の孤独があなたの存在によって癒される、世界が変わる」というラブソングなのが、アメリカ的な感じがする。生徒同士の恋愛だけでなく、教師同士の恋愛、教師と生徒の恋愛もあり、ハラハラする。麻薬まがいのものも、教師も使用したりする。教師が嘘をついたり、人を落とし入れたりもする。5年間で121回も続いた連続テレビドラマということで、映画のように伏線が後で表に出るというような一貫性がなく(コンテストの優勝目指すという目標は一貫しているが)1話づつが一応独立しており、登場人物の気持ちもくるくる変わり、次に誰と誰がくっつくのか、ストーリーがどのような展開になるのか見当がつかない。そのようなテレビドラマの面白さがある。最近のアカデミー賞映画「ラ・ラ・ランド」より歌やダンスは上手のように思う。

<『glee/グリー』[1](原題: glee)は、20世紀フォックステレビジョンで制作されフォックス放送で放送された米国のテレビドラマシリーズ。2009年5月19日から2015年3月20日にかけて全121話が放送された。英語の “glee” とは「自分を解放し歓喜すること」また合唱部の「合唱」のことであるが、本作におけるグリー(合唱)とは、チーム一丸となり歌とダンスの芸術性を競いあうパフォーマンスを意味する。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/Glee/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC)>

GLEE is a musical comedy about a group of ambitious and talented young adults in search of strength, acceptance and, ultimately, their voice. Over six years the series has followed a dynamic group of high school students from the halls of McKinley to the mean streets of New York City, as they embarked on life after high school.(http://www.fox.com/glee)

友人関係について

子どもや青年にとって友人関係というものはとても大切なものである。親子関係や教師―生徒関係といったタテ関係からでは得られない貴重な成長の糧がヨコ関係の友人関係から得られる。友人関係に関して親や教師の介入できないところに大人のもどかしさがある。
「子ども調査でも友人関係に切り込んだ質問をすることはよくあるが、成功したためしはない」と深谷昌志先生がよくおしゃっていたことが、心に残っている。
昔企画した「東京都子ども基本調査」では友人関係を調べるのに「親友」について聞いた方がいいのか、「友人グループ」について聞いた方がいいのか、迷った覚えがある。結局、友人関係を、「親友」というというよりは「友人グループ」として捉え、親しい友人グループをもって(属して)いるか、その友人グループの人数や構成(異年齢や異性も含まれているか等)や話題について尋ねた。
自分の体験から考えると、小中の時は親友、高校の時は友人グループ、大学は親友と優先の形態は移り変わっていたように思う。男性の場合と女性の場合では違うことであろう。
今の大学生を見ていると、ひとりで行動している学生も少数ながらみかけるが、女子学生はペア(親友)、男子学生はグループで行動してのをよく見かける。男女混合のグループはあまりみかけない。いつか、その実態や心情に関して、学生に聞いてみたいと思う。
学校・大学卒業後、つまり社会人や家庭人になってからの友人関係はどうなのであろうか。それまでの親友や友人グループは学校卒業後、その付き合いは続くのであろうか。仕事関係の同僚や取引先の知り合いが友人になる場合もあり、そちらが優先になる場合もあるであろう。新しく作った家族の人間関係が主で、友人や友人関係は疎遠いなる場合もあるだろう。
歳とってから考えると、人との距離の取り方は安定してきて、それほど近くはならないものの、若い頃の親友との関係に近いものが、何人かとまた初対面の人とも築けるように思う。
このような友人関係について考えたのは、昨日(8月14日)の朝日新聞の下記の記事を読んだからである。なかなか味わいの深いことが書いてあった(一部転載)

本谷有希子の間違う日々  本当に羨ましい関係は
 友人の一人を「親友」とやけにアピールして話すような女の子を見ると、なんだかムズムズする。 あれはなんだ。誰もが心の奥底で欲してやまない、人生の財産となるものを彼女達(たち)は本能的に見せびらかしているだけではないか。 君達よ、と私は思う。確かにその絆は素晴らしい。そんな存在を夢のなかですら作れたことがない私は嫉妬するほど羨(うらや)ましい。 と同時に、君達がしつこくそのことを強調するほど、私の心の火は穏やかになっていくのである。なーんだ、言葉や写真でそうやって絶えず縛り付けなければもろく崩れてしまうシロモノなんだ、と安堵(あんど)するのである。そして今度は反対に、心配になってくる。 気づいているのだろうか。そうやってただ一人を親友と限定するたび、いま君達の目の前にいる別の人の心が、音を立てて離れていくことに。その絆をひけらかすために、他の全人類をそれ以下だと切り捨てていることに。 「愛は負けても親切は勝つ」という米作家ヴォネガットの言葉が私は好きだ。これを私なりに置き換えよう。「親友はいなくても、そこそこの知人がなんとかしてくれる」。知人万歳。そこそこの人達のなんと親切なことか! (作家・劇作家)