仙台の街角観察

水沼文平さんより、「上野千鶴子さんの回答は見事ですね」「ソフィーには頑張って欲しいですね」というメールをいただいた。また仙台での興味深い街角観察も送っていただいたので、ご了解を得て、転載させていただく。

「私の街角社会学」                        水沼文平

仙台の街中を車で走っていて目立つものがいくつかある。
一つ目は整骨院。お年寄りとは思えない人でも足が悪いのか杖を持っている人が多
い。寿命は延びたが足腰が耐用年数を越えているのであろうか。近くに住む私の従姉
は主婦専業だが腰の痛みがひどく整骨院と整形外科を往復している。最近は症状が悪
化し外歩きができなくなった。整骨院でどんな施術をするのか分からないが、私は長
いこと上がらなかった右腕がこの一年プールで泳いでほぼ完治した。自然治癒力とい
うのか、手術や薬に頼らず、人や動物が生まれながらにして持っているケガや病気を
治す力・機能に期待したいと思う。
二つ目は犬猫病院である。朝夕、犬を連れて散歩している人が多い。中には大小セッ
ト、例えばラブラドールレトリーバーとテリアの組み合わせもある。この春の早朝、
近所の犬猫病院の前を通ったらベンチにバスケットのようなものが置いてあり、それ
が動いているので覗いてみたら小さい犬が入っていた。捨て犬だと思う。疚しさを薄
めたいのかドッグフードが置いてあった。私の実家の16才の猫はどこか内臓が悪く何
度か手術、定期的に病院に通っている。食べ物も固形フードのみ、ごはんに味噌汁、
削り節をまぶした「ねこまんま」とは全く無縁である。
三つ目は美容院、最近の青少年は理髪店には行かず美容院に行くそうだ。私は「散髪
→洗髪→髭剃り→肩もみ→耳かき」というフルコースの散髪店に通っている。翌日に
は消えてしまう髭剃りなどのサービスはしないで散髪だけというアメリカ式の店には
行かない。月に一度位は顔に正装を施したいと思っている。美容院には散髪店の赤と
白のbarber poleがない代わりにしゃれたカタカナの看板が多く、内部も凝った造り
だという。そういえば「カリスマ美容師」と言われる人がいるそうだが、私が通って
いる店の親方は小中学校の後輩で、腕もいいが話題も豊富で「床屋談義」を彷彿とさ
せるものがある。
四つ目はデイケア送迎車である。朝夕、車椅子搭載可能なボックスカーや軽ワゴンが
走り回っている。お年寄りは施設に行って、歌ったり、踊ったり、健康体操をした
り、あるいはリハビリなど、けっこう楽しいようだ。朝の8時頃、アパートの前の駐
車場に軽ワゴンが走ってくる。橋を渡って腰の曲がったかなり年配の女性が杖をつい
て歩いて来る。ワゴンの女性が走り寄っておばあさんの脇をささえる。明日も明後日
もこの光景が続くことを願っている。
五つ目は高校・大学の進学塾である。偏差値の高い学校に入るために、親の言いなり
に塾に通い、知識や技能の詰め込みにあくせくしている遊び盛りの子どもたちには同
情を覚える。一昨年沖縄を訪問したが、那覇の街中で全く塾の看板を見なかった。全
国学力テストで下位の方でも沖縄の子どもたちは別の面で多くを学んでいるのではな
いだろうか。
以上、街角で見た光景から見えてくるものは、高齢化社会、ペットブーム、おしゃ
れ、健康寿命、偏差値教育である。では、私が子どもだった1950年代と比較してみよ
う。平均寿命は60台、ほとんどの男は退職してすぐ死亡、従って杖もデイケアも必要
がなかった。犬猫はタダで貰うもの、番犬と鼠猫はペットと兼業であった。パーマ屋
というものがあったが散髪屋でおばさんの姿をよく見かけた、中高校ではいい学校に
入ることを目指したが、校内の雰囲気は「文武両道」で青白い秀才は「ガリ勉」とし
て敬遠された。
現在は医学の進歩や豊富な食物で人は長生きするようになった。生活のゆとりから高
価なペットを飼い、おしゃれを楽しみ、勉強すればよりよい未来が待っているという
文句なしの「いい世の中」になっている。しかし私にはなぜか昔がなつかしい。それ
は、家族で分かち合った貧しい食事、悲しかった仔犬の間引き、朝日を拝む年寄り、
バリカン虎刈り、優先した仲間との遊びなどに対する郷愁から湧いて来るものであ
る。豊富な食べ物、AI掃除ロボット、長期平和、こんないい世の中に住んでいて、
こんな風に思うのは私の単なるノスタルジア、あるいはアマノジャクのせいかもしれ
ない。今朝もおばあちゃんが橋を渡って来た。

教養について

 読み返し、最初に読んだ時の感動を思い出したり、その時の心の安定や癒しを再現したくなる愛読書は誰にもあるのかもしれない。 仙台にいる水沼文平さんから、下記のメールをいただいた。
<村上春樹の「やがて哀しき外国語」は好きな本のひとつで私も読み返したことがあり
ます。読み返しで一番は司馬遼太郎の「街道をゆくシリーズ」です。読んでいると精神が安定し、トランキライザーの役割も果たしてくれます。
 来週、津軽の旅に出ます。太宰の足跡を訪ね、岩木山をいろんな角度から眺め、津軽三味線を聞き、そして十三湖と竜飛岬を見たいと思っています。>

 私の場合、水沼さんほど教養の幅や深さがなく、司馬遼太郎や太宰治まで射程が広がっていない。若い頃は、夏目漱石や古井由吉の小説や江藤淳の評論をよく繰り返し読み、精神の安定を図った。人それぞれ、そのような精神の安定剤をもっていることであろう。読む本によって、その人の教養が知れてしまう。

 同じような役割を果たす映画というものがあるのだろうか。同じ映画を繰り返し見ることはどのくらいあるのであろうか。これも人によるのであろうが、私の場合あまりない。好きな監督(たとえば、ヴィスコンティ、マイケル・チミノ、黒沢明など)の映画は時々見たいなとか、ジブリの映画は何度か繰り返しみたいなと思う程度である。
 音楽好きの人にとっては、同じ曲、同じ演奏家の演奏や歌を聴き、心の高揚や癒しをはかっている人がいることであろう。昔友人から、落ち込んだ時はグールドのピアノ演奏(確かモーツアルトの曲だと思うが)を聴くという話を聞き、私と教養が違うなと感心したことがある(彼から、グールドのレコードを1枚プレゼントされたことがある)。江藤淳や村上春樹のエッセイを読んでも、クラシックやジャズの音楽や演奏に関する関する記述が多い。私の場合、そのような音楽の教養やセンスがない。