教育と社会化は違う&実証性

デジタル教科書の導入について考える時、次の2つ点を考えてほしいと思う。(結論的には保守的になってしまうかもしれないが)

① 教育は、社会に適応していかなければいけないが、社会の論理と教育の論理は違う面がある。何でも、社会に適応(後追い、迎合)すればいいわけではない。教育と社会化は同じではない。
文化的遅滞というものがあり、教育のシステムや意識はいつも社会のシステムや意識に後れをとるという側面もあるが、教育は、社会の動きとは違った動きをすることにより、成長過程にある子どもの教育に資する場合もある(学校の週5日制度の実施は、社会に学校が合わせるという論理で行われたが、その弊害が言われ、今見直しが行われている。)。したがって、子どもの成長のしくみ、学習のしくみから、どのような方法がいいかも、これまでの学問の積み重ねから考える必要がある。
社会がほとんどデジタル化しているからこそ、学校はそれとは別の方法(紙の教科書)で教育する方がいいという考えもできる。(実際は、電子ブックや電子新聞が出ても、紙媒体はなくなっていないのが実態である。多くの社会の会議は紙媒体で行われている)

② 普通、医学の世界で新薬や機器を導入する時は、既存の薬や機器との効用の比較の実験を繰り返し行い、はっきりと新しいものの効用が高く、副作用がないとデータで確認された段階で、導入が決まる。
誰も反対できない殺し文句(「アクティブ・ラーニング」と「障害者への効用」)で、導入を決めるのではなく、はっきりした実証的データ(エビデンス)を得て、政策を決めてほしいものである。

教育政策の決定過程

教育政策はどのような過程を経て、決まるのであろうか。
教育に関する政策は、それが影響を受ける人が多い(日本の全児童・生徒)ので、しっかり見守る必要がある。時に、その決定過程に意見を言う必要もあるだろう。
たとえば、これまでのことで言えば、「学校週5日制」や「総合的学習の時間」の導入「小学校への英語教育」の導入、「道徳教育の教科化」など、どのような決定過程を経ているのであろうか。

今あまり知られていないかもしれないが、学校の教科書(学習者用)をデジタル化して、紙媒体を全廃しようとする文部科学省の動きがある。それに関する有識者会議というものもあり、もうすぐ答申を出すようだ。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/110/index.htm

この答申に基づき、子どもの使う教科書が全部デジタル化され、紙の教科書がなくなれば、その影響は、歴史の教科書に戦争中の「侵略」をどう記述するのか〔しないのか〕ということなど比べものにならないほど、大きな影響を子ども達に及ぼす。
有識者会議のメンバーがどのような人で、文部科学省は、どのような理由でこのようなことをしようとしているのか、この政策によって、誰が得をするのか、本当に未来の子ども達の為になるのかということを、研究者も教師も親も考える必要があるだろう。

上記に関して、いろいろご意見をいただいている。
「児童生徒数は約1千万人、タブレット1台が2万円として、いくらの金額になるのでしょうか? 原発同様、利権絡みでかなりの金が流れています。」(M)
「文科省の意向については、私たちからどうこういうことはできないと思います。調査をして、数値を報告することに徹したいと思います。さまざまなデータを提供し、最終的に政策立案者がお考えになればと思います。ただ、その気運でない時にあれこれすると現場に混乱を及ぼすことは確かでしょう。」(H)
「私は、ディジタル教科書の導入によって、今までにない学習の質が達成できるのではないか、と思っているところがあります。新しい「アクティブ・ラーニング」に役立つものになるかな、というものです。ただ、デジタル教科書はあくまで学ぶための手段で、それが目的化してはいけません」(K)

永遠の嘘をついてくれ

過酷な戦場にいる男にとって、一番の慰めは、祖国で待っている妻や恋人である。
彼女らの写真を大事そうに眺める武骨な男の姿が目に浮かぶ(そんな映画のシーンがあったように思う)。
実際は、男が祖国や故郷に帰ってみれば、恋人や妻は心変わりして、冷たかったり、離れていったりするのであるが、男にとって女性が一番大切な存在だと感じる(信じる)ことは、男のロマンと言っていいであろう。
お金や地位よりは愛(女性)が大事と思う、男という存在は、女性の現実ではなく、女性に夢を求める存在であり、滑稽であり、悲しいものであるように思う。

吉田拓郎の「永遠の嘘をついてくれ」を、そのような歌として聴いた。

同じ気分から出る同じ意見

 理系の研究だけでなく、文系の研究でも、初発やオリジナリティは大事である。その考えや視点、分析、考察は、誰が最初に考え付いたもの誰なのかを、きちんと明記することが、論文を書くときの作法である。
しかし、時代的な気分の中で、同じようなことを同時に思いつくような場合は、どうなのであろう。あまり、初発を(つまり誰が最初に言ったのかは)気にしなくてもいいのかもしれない。
 安保法制に対する闘いの後の敗北の厭世気分について、今回は、これまでの安保闘争や大学闘争とは、違いということを、マスコミを含めて多くの人が言っている。またマスコミや識者に言われなくても、そう感じている人が多い
 先にコピーした天声人語の内容と藤原新也が9月19日のShinya talkで言っている内容がほぼ同じである。(藤原新也のtalkの内容を一部コピーする。文章を一部省略。全文は http://www.fujiwarashinya.com/talk/)

<もう「傘がない」は歌うな                藤原新也
今回の15年安保闘争は規模はその前の安保闘争とくらべ、規模は小さかったが取り決められたその内容は実質的な憲法九条改正であり、さらにアメリカの戦争に加担という意味からすれば60年、70年安保より重要な局面だったと思う。
そして雨の中、有り体に言えば闘争は60年、70年安保闘争と同じように敗北を喫した(というより勝負にならない闘いだったと言える)わけだが、私は今回運動に参加した若者と会ったおりにひとつだけ伝えたいことがある。
それは過去の二の舞を踏むなということである。
70年安保闘争が敗北に終わって世の中に蔓延した気分は「しらけ」だった。そのしらけの気分と行動様式は井上陽水の歌「傘がない」(今日の政治問題より恋人に会うための傘がないことの方が問題と歌った)に象徴される。さらには「私の人生暗かった。どうすりゃいいのよこの私」と歌った藤圭子の「夢は夜ひらく」。あるいは昭和枯れススキ。吉田拓郎の結婚しようよ。などなど、時代には厭世気分が横溢する。
この安保闘争世代の厭世としらけという時代気分は後年までトラウマのごとく日本人の無意識の中に浸透し、その時代気分はのちの世代の若者の政治問題への無関心にまで引き継がれたと私は見ている。
だが、秘密保護法、憲法改正、集団的自衛権のみならず、若者の過酷な雇用制度、年金への不安などによってマグマの貯まった若者の意識は45年ぶりに目覚めた。その意味においてこの15年安保闘争の敗北に際し、過去の轍を踏むなと言いたいのだ。もう「傘がない」は歌うな、と。
過去の二の舞を踏むことなく、自からのためにも後に続く世代のためにも、君たちは別の歌を歌わなければならない。私はそのように言いたい。>(shinya talk,9月19日)

 憲法や法律は、国民への規制ではなく、施政者の横暴や恣意を規制する為に存在する、というのは自明のこと。それが今の施政者にはよくわかっていないのかもしれない。
 それはともかく、今回のことで、法は絶対ではなく、それ使う国民の意識が大事という風潮が確認された。教育の世界でも、教育関係の法律(学習指導要領も含め)が絶対ではなく、それはあくまで基準的なもので、教育者や被教育者の意識や判断で柔軟に変えることができるという風になれば、それはいいことかもしれない。