「中枢型」モデルから「離散型」モデルへの移行

NHKBSで.『最後の講義「生物学者 福岡伸一』を少しだけ見た。脳死の考え方を批判し、人の体について,部分部分だけでなく全体でみる必要がある、たとえば部分の損傷を別の部分が補うように働くというような部分間の関連性や全体性のこと指摘していたように思う。
これは、有機体説とかホメオスタシス(homeostasis)の考え方に近いように思う。社会学で言えば、構造機能主義、均衡理論である。都市に当てはめて考えると、都市もそれぞれの機能を分担して、また全体の統一を保つように働くように作られていると考える。
それに対して、アメリカの強大都市ロスアンジェルスは、この理論では説明できず、アメーバーのように液状化(?)して広がり、分担も統一もない特徴をもつ  ーこのような論を昔読んだ覚えがある。

有機体のようなホメオスタシス的な均衡や中枢の存在を想定するのか、それともそのような全体や中枢がなく、離散型で部分部分の勝手な動きや自律性を想定するのかで、いろいろなことを考える際に違ってくる。

コンピューターの世界の考えは、前者から後者への歴史的な転換があり、社会のエネルギー政策も同様の考えに立つべきという、内田樹氏の考えには、とても興味を惹かれた。(ブログ blog.tatsuru.com/2018/09/07_0838.html より一部転載)

<コンピュータの場合は、IBM的な中央集権型コンピュータシステムから、1970年代にアップルの離散型・ネットワーク型コンピュータ・システムへの「コペルニクス的転回」があった。
あらゆる情報をいったん中枢的なコンピュータに集積し、それを管理者がオンデマンドで商品として配達して、独占的に設定された代価を徴収する。そういう情報処理モデルが時代遅れとなった。今、情報はネットワーク上に非中枢的に置かれて、誰でも「パーソナル」な端末から自由にアップロード・ダウンロードできる。「中枢型・商品頒布型」モデルから「離散型・非所有型」モデルへの移行、これはひろく私たちの世界の「基本モデル」そのものの転換を意味している。
IBMモデルからアップルモデルへの移行は「情報」そのものの根本的な定義変更を含んでいたからだ。
この基本的趨勢はもう変えることができないだろうと私は思う。たぶん、エネルギーもそうなるべきなのだ。
テクノロジーの進化は、当然電力においても、パーソナルなパワープラントとその自由なネットワーキングを可能にした。環境負荷の少ない、低コストの発電メカニズムの多様で自由なコンビネーションによって、「電気は自分が要るだけ、自分で調達する」という新しいエネルギーコンセプトが採用されるべき時期は熟していたのである。電力においてもIBMモデルからアップルモデルへの、中枢型から離散型へ、商品から非商品へのシフトの技術的な基盤はもう完成していたのである。
そのシフトが果たされなかった。旧来のビジネスモデルから受益している人々が既得権益の逸失を嫌ったからである。原発は彼らの「切り札」であった。国家的なプロジェクトとして、膨大な資金と人員と設備がなければ開発し維持運営できないものに電力を依存するという選択は、コストの問題でも、安全性の問題でもなく、発電が原発中心である限り、離散型・ネットワーク型のエネルギーシステムへのシフトが決して起こらないがゆえに採用されたのである。>