「戊辰戦争 母の怒り」 水沼文平

 東北は「明治維新」ではなく「戊辰戦争」150年の記念行事が各所で行われていま
す。私の母の生地である「旗巻古戦場戊辰の役 百五十年祭」に参加しました。
以下、戦争一般に関する私論です。(水沼文平)

9月2日、「旗巻古戦場戊辰の役 百五十年祭」に参加した。旗巻とは宮城県と福島県
との県境にある峠である。明治戊辰戦死者供養碑の前で神主が祝詞をあげ、町長など
のお歴々が玉串を捧げた。その後、場所を移して記念講演がり、地元の伝統芸能であ
る「青葉田植え踊り」が披露された。

旗巻峠のある青葉地区は伊具郡丸森町大内に属する。慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いで
勝利した薩長軍は4月江戸城を接収、5月彰義隊を壊滅させ、同年6月に白河を越え、
奥羽になだれ込んできた。奥羽越列藩同盟により仙台藩は各地に藩士を派遣したが負
け戦が続き、8月に仙台藩と相馬藩の境にある旗巻峠で西軍との戦いとなった。仙台
藩は2000名を配置し迎え撃ったが、兵器の差が歴然としており、善戦虚しく一日で敗
退した。その後、西軍は旗巻峠の北にある大内を占領した。

私はこれ以上戊辰戦争の経過を書くつもりはない。実は私の母は丸森町大内で明治40
年に生まれている。4,5才の私に何度か語ったことは、母の祖父の弟がこの旗巻峠の
戦いで死んだということである。母の生家は農家なので軍事物資の運搬か雑用で使役
されて流れ玉にでも当たって死んだのかもしれない。母は話の最後にいつも「さっ
ちょうめ、さっちょうめ」と言った。当時の私が「さっちょう」なんか知る由もな
く、話の最後に言った言葉と恐ろしい母の顔が強く脳裏に刻み込まれている。

戦いは兵士だけで戦われるのではなく、多くの農民などが駆り出され、また食物、薪
などの供出を強いられる。「旗巻古戦場」という唄の三番が石碑として残されてい
る。

「三 秋吹く風は変わらねど 昔を語る戦士塚 恩讐今や共になく 墓前に香る野の
花よ ああ旗巻の古戦場」。この碑を見た時、私は「薩長め!」と憎々しげに言った
母を思い出した。果たして「恩讐今や共になく」なのであろうか。これは今でも続い
ている西高東低の政治・経済状況における東北人の権力に対する「阿ねり」の結果で
はなかろうか。また会津若松の神社に「恩は石に刻み、恨みは水に流せ」という石碑
がある。これも為政者レベルの取引か妥協の産物のような感じがする。

「西軍は旗巻峠の北にある大内を占領した」と前記したが、その時西軍によって何が
行われたかは不明である。会津若松市内での西軍の暴虐行為のような略奪、暴行がな
かったとは言えない。明治40年生まれの母に彼女の祖父を含め当時のことを語った多
くの人がいたことは想像に難くない。「薩長め!」という母の罵りの背景に幼い私に
は言えなかった事実が隠されていたような気がする。

戦争とは兵士だけの戦いではない。多くの農民など一般人が動員され、女や子供が惨
い目に遭うのが戦争である。戊辰戦争における仙台藩の大義名分は「勤皇の会津を助
け、私軍である薩長を討つ」というものであった。現在、東北ではそのレベルでの議
論が沸騰しているが、私は戦いに巻き添えを喰った庶民の視点での研究をもっと深め
て欲しいと思っている。そして「さっちょうめ!」という歴史認識を持つ東北人が増
えることに期待したい。