朝顔

今年は(も)、うちの朝顔の咲きは遅い。昨日(15日)は夏の終わりを告げるオーシンツクツクの鳴く声を聞いたというのに、まだほとんど咲いていない。このライトブルーの朝顔をたくさん見ないと夏は終われない。その代り、別の朝顔やゴーヤが夏の季節を告げている。

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日本教育社会学会第67回大会プログラム

日本教育社会学会第67回大会が、来る9月9日(水)〜10日(木)に駒沢大学で開催される。そのプログラムが、大会HPに掲載されている。さすがに、聞きたくなるような発表が満載である。

http://www.komazawa-u.ac.jp/society/jses2015/program.html

 

 

 

同世代

社会学に世代論というのがある。同じ時代に生きた人間は、同じような時代体験をし、同じような志向や価値観をもつというものである。戦後70年ということだが、70歳前後の私の世代は、戦後の食べるものもない時代に育ち、アメリカ民主主義を学び、戦後の復興、高度成長を経験し、冷戦、左右の政治対立を見てきた。

今日の朝日新聞に掲載の「私の歩んだ戦後70年 ドイツ文学者・エッセイスト、池内紀*(2015年8月14日)は、同性代体験として、共感できる部分が多い。(一部転載)

< もの心ついたころ、戦争は終わっていた。うぶ声をあげたばかりの戦後民主主義のなかで教育を受けた。 おそらく戦後教育史のなかで、もっとも混乱していた時期だったのだろう。古い革袋に新しい酒を盛ろうとして、おおかたがこぼれ落ちた。新しい理念を伝えるべき人たちの大半が古い世代だった。>< 私には「戦後70年」という言葉は、あまり意味がない。むしろ戦後20年である。その間にいまの考え方、生き方、人との対し方のおおよそを身につけたような気がする。以後の歳月は本質的に、ほとんど自分を変えなかった。母が口癖にしていたとおり、国は信用ならないし、他人は頼りにしないのがいい。勉強をするのも体験をつむのも自分のため、人の話はよく聞いても、決めるときは自分の考えどおりにする。><カントによると、隣り合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとって「自然な状態」ではないのである。むしろ、いつもひそかな「敵意」のわだかまっている状態こそ自然な状態であって、だからこそ政治家は平和を根づかせるために、あらゆる努力をつづけなくてはならない。>

藤原新也の「私の半生」(朝日新聞・夕刊連載)も、71歳の氏が、まさに時代にどのように関わって来たかの記録である。その中で、年齢に伴う心境の変化について、興味深いことを言っている。

<50代半ばから60歳にかけて何か心境が変わった。人には“いただく”年季と“返す”年季があるのではないかと、最近思いはじめている。つまり、人が育つ過程で他者からの愛情を含めさまざまな果報をいただく年代と、その溜(た)め込んだものを他者に返す年代ということ。『コスモス……』はそういう意味では返礼の書だと思う。逆に言えば60歳を過ぎても何も他者に返さない人生というのは精神衛生上よくない。いまの大人は返さないから。いただいたものを返して差し引きゼロとなって死ぬのがいちばんすっきりする>(8月11日,夕刊)

 

「大地の芸術祭」について

自分が狭い世界で生きているなと思うことがある。自分では自分の専門以外のことにも関心を持ち、見聞を広めているつもりでも、実際はそうではなく、狭い世界に閉塞しているのかもしれない。

先日、家人に誘われて新潟県の苗場までいた時、ついでに十日町まで行って「大地芸術祭」見ようと言われた時も、「大地の芸術祭」というのが何のことかわからず、十日町までは行きながら、3500円の入場料が惜しくて、何も見ずに引き返した(道に迷い、山道に入り込み、棚田などは見ることができたが)。

先日、上野正道氏と話していたら、「大地の芸術祭」の講師として招かれ十日町の廃校になった学校での催しに参加してきたという話が出た。「大地の芸術祭」をネットで検索すると(http://www.echigo-tsumari.jp/、)その概要がわかる。こんな取り組みが、何年か前からあり、地方の過疎化対策やその活性化の試みが、高い理念のもととりわけ芸術・アートの観点からなされていることを知った。自分の関心の狭さ、とりわけ芸術的センスのなさを、痛く反省した。(ネット検索の一部を転載。) 

 ▼「大地の芸術祭の里」とはー3年に1度の世界最大級の国際芸術祭「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の舞台となる、越後妻有地域(新潟県十日町市・津南町)を「大地の芸術祭の里」と呼んでいます。ここでは、1年を通して、地域に内在するさまざまな価値をアートを媒介として掘り起こし、その魅力を高め、世界に発信し、地域再生の道筋を築くことを目指しています。その成果発表の場となるのが、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」です。

▼基本理念――「人間は自然に内包される」 越後妻有は、縄文期からの豪雪や河岸段丘といった厳しい条件のなかで、米づくりをしてきた土地です。人々は、切り離すことができない人間と自然の関わり方を探りながら、濃密な集落を営んできました。その祖先にならい、わたしたちは、「人間は自然に内包される」という理念をかかげ、美術を人間が自然と関わる術(すべ)と捉え、広大な里山を舞台に、人と自然とアートが織りなす「大地の芸術祭」を2000年にスタートしました。 3年に1度の芸術祭が地域づくりの起点となるべく、わたしたちは年間を通じて活動しています。過疎化・高齢化が進む越後妻有の地域再生の契機として、地域資源の発見や地域の知恵の学習、住民との協働、空間を息づかせる制作という、アートがもつ力を信じ、この地域づくりが企画されました。

▼新しい地域づくりのモデルーー「大地の芸術祭の里」での地域づくりのあり方は、「妻有方式」として海外メディアでも多数紹介されるなど、国内外で美術の枠を越えた評価を得ています。「越後妻有の林間学校」は3.11の震災後、東北と繋がるすべを模索するなかで生まれました。東北の子どもたちが都市の子どもたちと一緒になり、「大地の芸術祭」の多様なアーティストやさまざまな分野の専門家を講師に迎え、アートやスポーツのワークショップ、農業体験、集落のお祭りや芸術祭の作品巡りなど、里山を舞台に大人も子どもも真剣に「遊び」「学び」ます。

今日(8月15日)の夕刊に、その一つの展示の紹介が載っている。

東京育ちの彫刻家で、日大芸術学部教授の鞍掛(くらかけ)純一さん(47)は、新潟県の越後妻有(つまり)地域(十日町市、津南町)で開かれる現代アートの国際展「大地の芸術祭」への出品を機に、現地との交流を10年以上続けています。芸術は地方の活性化にどう役立てるのでしょうか。 田園風景が広がる十日町市の室野集落。昨年閉校した奴奈川(ぬながわ)小の旧校舎で、地方と都市をつなげる学びの場をつくろう、との試みが始まっている。6回目になる大地の芸術祭のプロジェクトの一つ、「奴奈川キャンパス」。鞍掛さんは「校長」だ。 改修された旧校舎の正面玄関に、深緑色に塗った板に里山の風景を彫った巨大レリーフ(縦2・6メートル、横16・8メートル)を掲げた。キャンパス内のレストランでは、集落の各世帯が自前の夏野菜を提供し、地元の主婦が調理に加わる。農作業やアート制作などの体験講座も開く。「まずは里山にくるきっかけづくりが大切」。レリーフの制作では、5カ月で延べ200人の日大生を集落に連れてきた。「人とのコミュニケーションで作品が生まれるのだと実感した」と話す学生もいた。

原発について

今日読んだ本、新聞の中で、原発について、考えさせられる文章に出会ったので転載しておく。

<彼女は、最後この「飛行石」の謎を解かないままに、呪文と共に「石」を封印し、空高く遊離させる役目をする。物語はこうして、石の力の解明には至らずに、封印・遊離で終わる。それは現在の、核兵器や核施設(原子力発電所を含む)の封印・隔離の動きと同じである。私たちはみんなシータなのである。恐ろしい石を保持したけれど、その力を解明できないままに、恐れおののき、封印と隔離するしかないところにいる。しかし飛んでいったラピュタを、いつか誰かが再び見つける可能性を映画は残している。見つけて、武器として使用する可能性は残されているのである>(「天空の城ラピュタ」村瀬学『宮崎駿再考』平凡社、2015年、p19-20)

<九州電力川内(せんだい)原発の再稼働である。批判をかわすためか、万一のときの予防線か、責任をあいまいにしたまま、原発回帰への一歩を踏み出した▼一義的には電力会社の責任だが、再稼働を進めるのは政府だ。その政府は「世界最高水準の基準」だと強調するが、審査役の原子力規制委は「適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非は判断しない」と言う。あれやこれや腹に落ちぬことが多い▼もたれ合いの中なら、責任逃れの煙幕も張りやすい。福島の事故は国策と安全神話の破綻(はたん)だった。政・官・学の責任は大きいはずだがうやむやにされて、逃げも隠れもできない住民は故郷を奪われたままだ▼あす14日から、全国でゼロだった原発の電気が1年11カ月ぶりに送電網を流れる。冷房の風も照明の色も、どこの電気かで違いはない。いつの間にか原発頼みが当たり前の社会に戻っては、福島の教訓が泣かないか>(天声人語、8月13日、朝刊)

< 津波災害と原発災害が同時にやって来たわけだが、被災者の心情はまったく異なる。かたや天災、かたや人災。天災は諦めざるをえない気持ちに至れるが、人災は諦めきれないばかりかそこに深い怨念が生じる。取材時でも津波被災者は心情を吐露してくれたが、原発被災者は強いストレスを溜(た)め、取材で入ってきた私にさえ敵視した眼(め)を向け、とりつく島がなかった。人のいなくなった福島県飯舘村で老夫婦の居残る農家の居間に上げてもらったときは救われた思いがしたが、お茶を出された時ギクリとした。ストレスで婦人の手が震え、湯呑(ゆの)みの外にお茶がこぼれるんだ。福島の他の場所でも体の震えている人を見たが、おしなべてストレス耐性の弱い老人で多くの老人が死期を早めた。原発の最初の犠牲者は老人なんだ。原発再稼働にあたって経済効率の話ばかりが優先されるが経済とは人間生活のためにあるわけで、その人間生活の根本が失われる可能性を秘めた科学技術は真の科学ではないという理念を持った、本当の意味で“美しい日本”を標榜(ひょうぼう)する政治家が今後出てきてほしいと願う。(藤原新也 私の半生、朝日新聞、2015年8月13日、夕刊)

天災は、津波にしろ。火山の爆発にしろ、洪水にしろ、地球全体を破壊するとはないが、原子力は地球全体を消滅させる危険性を有している。しかも、その原子力の安全性に関して不明で、それを封印・隔離したままで推し進めるということは、これまでの人類の歴史でなかったことである。地球全体の破壊の可能性を承知(=安全性が不明で)で原発の再稼働をするということであるから、日本政府は大きな賭けに出たということになる。しかも、その責任の所在を不明にしたままで。