同世代

社会学に世代論というのがある。同じ時代に生きた人間は、同じような時代体験をし、同じような志向や価値観をもつというものである。戦後70年ということだが、70歳前後の私の世代は、戦後の食べるものもない時代に育ち、アメリカ民主主義を学び、戦後の復興、高度成長を経験し、冷戦、左右の政治対立を見てきた。

今日の朝日新聞に掲載の「私の歩んだ戦後70年 ドイツ文学者・エッセイスト、池内紀*(2015年8月14日)は、同性代体験として、共感できる部分が多い。(一部転載)

< もの心ついたころ、戦争は終わっていた。うぶ声をあげたばかりの戦後民主主義のなかで教育を受けた。 おそらく戦後教育史のなかで、もっとも混乱していた時期だったのだろう。古い革袋に新しい酒を盛ろうとして、おおかたがこぼれ落ちた。新しい理念を伝えるべき人たちの大半が古い世代だった。>< 私には「戦後70年」という言葉は、あまり意味がない。むしろ戦後20年である。その間にいまの考え方、生き方、人との対し方のおおよそを身につけたような気がする。以後の歳月は本質的に、ほとんど自分を変えなかった。母が口癖にしていたとおり、国は信用ならないし、他人は頼りにしないのがいい。勉強をするのも体験をつむのも自分のため、人の話はよく聞いても、決めるときは自分の考えどおりにする。><カントによると、隣り合った人々が平和に暮らしているのは、人間にとって「自然な状態」ではないのである。むしろ、いつもひそかな「敵意」のわだかまっている状態こそ自然な状態であって、だからこそ政治家は平和を根づかせるために、あらゆる努力をつづけなくてはならない。>

藤原新也の「私の半生」(朝日新聞・夕刊連載)も、71歳の氏が、まさに時代にどのように関わって来たかの記録である。その中で、年齢に伴う心境の変化について、興味深いことを言っている。

<50代半ばから60歳にかけて何か心境が変わった。人には“いただく”年季と“返す”年季があるのではないかと、最近思いはじめている。つまり、人が育つ過程で他者からの愛情を含めさまざまな果報をいただく年代と、その溜(た)め込んだものを他者に返す年代ということ。『コスモス……』はそういう意味では返礼の書だと思う。逆に言えば60歳を過ぎても何も他者に返さない人生というのは精神衛生上よくない。いまの大人は返さないから。いただいたものを返して差し引きゼロとなって死ぬのがいちばんすっきりする>(8月11日,夕刊)