原発について

今日読んだ本、新聞の中で、原発について、考えさせられる文章に出会ったので転載しておく。

<彼女は、最後この「飛行石」の謎を解かないままに、呪文と共に「石」を封印し、空高く遊離させる役目をする。物語はこうして、石の力の解明には至らずに、封印・遊離で終わる。それは現在の、核兵器や核施設(原子力発電所を含む)の封印・隔離の動きと同じである。私たちはみんなシータなのである。恐ろしい石を保持したけれど、その力を解明できないままに、恐れおののき、封印と隔離するしかないところにいる。しかし飛んでいったラピュタを、いつか誰かが再び見つける可能性を映画は残している。見つけて、武器として使用する可能性は残されているのである>(「天空の城ラピュタ」村瀬学『宮崎駿再考』平凡社、2015年、p19-20)

<九州電力川内(せんだい)原発の再稼働である。批判をかわすためか、万一のときの予防線か、責任をあいまいにしたまま、原発回帰への一歩を踏み出した▼一義的には電力会社の責任だが、再稼働を進めるのは政府だ。その政府は「世界最高水準の基準」だと強調するが、審査役の原子力規制委は「適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非は判断しない」と言う。あれやこれや腹に落ちぬことが多い▼もたれ合いの中なら、責任逃れの煙幕も張りやすい。福島の事故は国策と安全神話の破綻(はたん)だった。政・官・学の責任は大きいはずだがうやむやにされて、逃げも隠れもできない住民は故郷を奪われたままだ▼あす14日から、全国でゼロだった原発の電気が1年11カ月ぶりに送電網を流れる。冷房の風も照明の色も、どこの電気かで違いはない。いつの間にか原発頼みが当たり前の社会に戻っては、福島の教訓が泣かないか>(天声人語、8月13日、朝刊)

< 津波災害と原発災害が同時にやって来たわけだが、被災者の心情はまったく異なる。かたや天災、かたや人災。天災は諦めざるをえない気持ちに至れるが、人災は諦めきれないばかりかそこに深い怨念が生じる。取材時でも津波被災者は心情を吐露してくれたが、原発被災者は強いストレスを溜(た)め、取材で入ってきた私にさえ敵視した眼(め)を向け、とりつく島がなかった。人のいなくなった福島県飯舘村で老夫婦の居残る農家の居間に上げてもらったときは救われた思いがしたが、お茶を出された時ギクリとした。ストレスで婦人の手が震え、湯呑(ゆの)みの外にお茶がこぼれるんだ。福島の他の場所でも体の震えている人を見たが、おしなべてストレス耐性の弱い老人で多くの老人が死期を早めた。原発の最初の犠牲者は老人なんだ。原発再稼働にあたって経済効率の話ばかりが優先されるが経済とは人間生活のためにあるわけで、その人間生活の根本が失われる可能性を秘めた科学技術は真の科学ではないという理念を持った、本当の意味で“美しい日本”を標榜(ひょうぼう)する政治家が今後出てきてほしいと願う。(藤原新也 私の半生、朝日新聞、2015年8月13日、夕刊)

天災は、津波にしろ。火山の爆発にしろ、洪水にしろ、地球全体を破壊するとはないが、原子力は地球全体を消滅させる危険性を有している。しかも、その原子力の安全性に関して不明で、それを封印・隔離したままで推し進めるということは、これまでの人類の歴史でなかったことである。地球全体の破壊の可能性を承知(=安全性が不明で)で原発の再稼働をするということであるから、日本政府は大きな賭けに出たということになる。しかも、その責任の所在を不明にしたままで。