大学改革にはお金がかかる。

大学の教室の机・椅子は、固定的なものが多い。それはなぜなのか?

思い出してみると、小学校から高校にかけて学校の机・椅子は一人ひとりのもので、移動式だったように思う。机と椅子を移動して、班学習や小集団討論が簡単にできた。それが、大学では、固定式の長椅子のところが多い。

その原因は、1960年代末の大学紛争(闘争)にあるという話を、昨日寺崎昌男先生(立教大学名誉教授・東大名誉教授)よりお聞きし、納得した。大学紛争(闘争)当時は、学生がバリケードを作るために教室から机・椅子を持ち出した。それを防ぐために、それ以降、各大学は机と椅子を固定化のものにしたという。

今、大学はカリキュラム改革や授業改善が言われる中で、この固定した机や椅子では、改革が実行に移せない事態が生じている。授業で、小グループの討論もできず、困っているという。アクティブラーニングの導入の為に、固定化した机や椅子の撤去や移動式の机・椅子の導入が必須になっているという。大学改革にはお金がかかるのである。

 

日本のソフトパワー

18歳以上の若者にも選挙権が与えられるようになり、大丈夫かと懸念される。大学生に聞いてみると、新聞を読まないものが大部分なのだから。某大学の新聞を見ていたら、安部首相を称賛する知名人や自民党代議士を呼んで講演会を開き、大学生の政治意識を喚起したということが書かれていた。このようなご時世、「常識的なもの」を読むことが必要である(それは他のメディアより新聞に掲載されることが多い)。「常識的な記事」(と私が思うもの)を転載する(一部抜粋)

日本が誇るソフトパワーとは ジョン・ダワー氏に聞く(朝日新聞8月4日,朝刊)

あの戦争が終わって70年、日本は立つべき場所を見失いかけているようにみえる。私たちは何を誇りにし、どのように過去を受け止めるべきなのか。国を愛するとは、どういうことなのか。名著「敗北を抱きしめて」で、敗戦直後の日本人の姿を活写した米国の歴史家の声に、耳をすませてみる.

「世界中が知っている日本の本当のソフトパワーは、現憲法下で反軍事的な政策を守り続けてきたことです」「1946年に日本国憲法の草案を作ったのは米国です。しかし、現在まで憲法が変えられなかったのは、日本人が反軍事の理念を尊重してきたからであり、決して米国の意向ではなかった。これは称賛に値するソフトパワーです。変えたいというのなら変えられたのだから、米国に押しつけられたと考えるのは間違っている。憲法は、日本をどんな国とも違う国にしました」

「私の最初の著書は吉田茂首相についてのものですが、彼の存在は大きかった。朝鮮戦争の頃、国務長官になるジョン・ダレスは、憲法改正を要求してきました。吉田首相は、こう言い返した。女性たちが必ず反対するから、改憲は不可能だ。女性に投票権を与えたのはあなた方ですよ、と」「その決断はたいへん賢明だったと思います。もし改憲に踏み込めば、米国はきっと日本に朝鮮半島への派兵を求めるだろうと彼は思った。終戦のわずか5年後に、日本人が海外に出て行って戦うようなことがあれば、国の破滅につながると考えたのです」

「その決断の後、今にいたるまで憲法は変えられていません。結果、朝鮮半島やベトナムに部隊を送らずに済んだ。もし9条がなければ、イラクやアフガニスタンでも実戦に参加していたでしょう。米国の戦争に巻き込まれ、日本が海外派兵するような事態を憲法が防ぎました」

「尖閣諸島や南シナ海をめぐる中国の振る舞いに緊張が高まっている今、アジアにおける安全保障政策は確かに難題です。」「だからといって、米軍と一体化するのが最善とは思えません。冷戦後の米国は、世界のどんな地域でも米軍が優位に立ち続けるべきだと考えています。中国近海を含んだすべての沿岸海域を米国が管理するという考えです。これを米国は防衛と呼び、中国は挑発と見なす。この米中のパワーゲームに日本が取り込まれています。ここから抜け出すのは難しいですが、日本のソフトパワーによって解決策を見いだすべきです」

「今、世界のいたるところで排外主義的な思想がはびこり、右派政治の出現とつながっています。ナショナリズムの隆盛は世界的な文脈で考えるべきで、日本だけの問題ではありません。グローバル化による格差が緊張と不安定を生み、混乱と不安が広がる。そんな時、他国、他宗教、他の集団と比べて、自分が属する国や集まりこそが優れており、絶対に正しいのだという考えは、心の平穏をもたらします。そしてソーシャルメディアが一部の声をさらに増殖して広める。これは、20年前にはなかった現象です」「北朝鮮や中国は脅威のように映りますが、本当に恐ろしいのはナショナリズムの連鎖です。国内の動きが他国を刺激し、さらに緊張を高める。日本にはぜひ、この熱を冷まして欲しいのです」

「繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から沸き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって、平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本人は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている」「本当に偉大な国は、自分たちの過去も批判しなければなりません。日本も、そして米国も、戦争中に多くの恥ずべき行為をしており、それは自ら批判しなければならない。郷土を愛することを英語でパトリオティズムと言います。狭量で不寛容なナショナリズムとは異なり、これは正当な思いです。すべての国は称賛され、尊敬されるべきものを持っている。そして自国を愛するからこそ、人々は過去を反省し、変革を起こそうとするのです」

(John Dower 38年生まれ。マサチューセッツ工科大学名誉教授。著作に「吉田茂とその時代」、ピュリツァー賞受賞の「敗北を抱きしめて」など。)

 

 

藤原新也 『アメリカ』

私自身はあまり海外に出かけることはしないが、旅行記を読むのは好きな方だ。特に、20年ほど前、在外研究で1年間アメリカのMadison(UW)に滞在することになった時は、研究者の外国滞在記・留学記をたくさん読んだ。たとえば、社会学者の加藤秀俊のアメリカやイギリス滞在記は大変参考になった。また、江藤淳の『アメリカと私』には感銘を受け、行かずともアメリカという国がわかった気になった。外国旅行記は、短期の印象的なものから、長年外国に住んでのそこの生活や文化の紹介まで、いろいろなものがある。その中で、藤原新也の『アメリカ』は、特異なもので、衝撃を受けた。その特徴は、①写真家藤原新也のその本質を瞬時に見抜く感性 ②7か月という中間的な長さで見えるアメリカの特質 ③長くアジアを旅行してきた視点から見るアメリカ、である。

 昨日(87日)の朝日新聞夕刊「人生の贈りもの・私の半生 藤原新也」は、その紹介であった。朝日新聞デジタル版より転載する。 

■空っぽだった快楽の国アメリカ

 ――『乳の海』で行き詰まり、どう打開しましたか。

 1988年に書いた『ノア 動物千夜一夜物語』の一編「ノア」で、猿の数が一定量を超えたとき滅びることが自明となっている森のなか、様々な生き方を選ぶ聖者を描いた。ある聖者は猿の数を熱心に数え、ある聖者は人々を笑いの渦に巻き込むことで現実逃避に誘う。旅人の「私」が最後に選んだ聖者は森に向かい音楽を奏でるホラ貝の聖者だった。滅びの中の癒やしというメタファーです。それから10年後に“癒やし”という言葉が流行語になったのは日本がその滅びの森に他ならないということかもしれない。

 ――88年から89年にかけ訪れたのはアメリカでした。

 猿の数が無限に増えて森が滅びるというのは資本主義社会の宿命ということでしょう。アジアからアメリカに向かったのは世界の構造を知るうえにおいて必然的な旅だった。寝泊まり出来るモーターホームで7カ月間をかけ全米を一周した。

 ――大型車で全米を回り、どうでしたか。

 不思議だった。それまではアジアの旅では一切メモを取らない人間だった。事物に存在感があり、記憶が身体化されたからです。だがアメリカではきのうのことさえいつの間にか忘れていて、初めて旅でメモを取った。存在感の希薄な文化だということです。

 ――アメリカでの発見や驚きとは。

 世界の快楽原則はここからやってきているということ。たとえばネズミは、かつてペストが猛威をふるった西欧でもっとも忌むべき動物です。そのネズミさえミッキーというクリーンで親しみやすいキャラに変換していく。現実に棘(とげ)のあるものをすべて“快”に置き換えていくこのアメリカ的なるものは、今の日本のメディアの中でも起こっていることだ。それからコカコーラにしろミッキーマウスにしろ、多民族国家で流通する最大公約数的文化は、おのずと多国籍で構成される世界の標準になりえるということだ。だからアメリカ文明は世界を席巻するのだというきわめて単純なことに気づいた。

 ――7カ月間、アメリカに滞在したあとの総括とは。

 アメリカを過大評価していたな。単純な構造でわかりやすかった。歴史が浅いから掘り起こすとすぐに根っこが現れてくる。紀元前からの歴史があるアジアの濃い世界と違い、映画のセットみたいに背景もルーツもない。逆にそこが非常に面白かった。

 アメリカという国家はネズミを強引にミッキーに変えてしまう自分本位な国だが、市井の一人ひとりは日本人より他者に対する思いやりがある面もある。マウンテンバイクで山を下りていて空中に投げ出されたことがあった。気がつくと十数人が顔を寄せ合い本当に心配しているんだ。東京・銀座の路上で以前、交通事故に遭ったときに遠巻きに冷たい視線を向けられたのとは対照的だった。けれども、国家になると二重人格者のように性格が一変する不思議な国だね。(聞き手・川本裕司)=全10回

アメリカの旅行記に関しては、Mさんより、下記の紹介があった。

<司馬遼太郎の「ニューヨーク散歩」「アメリカ素描」も面白いですよ。>

 

 

(人生の贈りもの)「私の半生」 藤原新也

「私の半生」という朝日新聞の夕刊に写真家・藤原新也が登場している。いくつか、私の知らないことも書かれていて面白い。特に、氏が写真家になったきっかけについては、はじめて知った。読んでいない人もいると思うので、以下に転載する。(2015年 8月4日、朝日新聞 夕刊)

■未経験の写真がいきなり雑誌掲載

――18歳で九州から上京したのですね。

中学のときに聴いたサンバギターをやりたいと、高校卒業後に東京へ出てきた。東京では遊び人をやっていて、こんなこと続けていると人間がダメになると思って、美術大学を目指した。

――1970年、雑誌『アサヒグラフ』の「“インド発見”100日旅行」がデビュー作だったんですね。

前の年、姉の付き添いで行った病院の待合室にあったアサヒグラフを開いたら、読者写真と短い記事による「私の海外旅行」というコーナーを見つけてね。イギリスからインドへ旅するための金がバイト代でも足りず、取材費を出してくれるかと、神田駅前の公衆電話から編集部にかけたんだ。「取材費は出ない。何か撮ったら持ってきて」と言われ、しゃくに障った。

――それからどのように。

有楽町にあった編集部に乗り込んだら、副編集長が『せっかく来たんだから座りなさい』と。同じ世代の人間が学生運動をしているのになぜ旅するのと聞かれ、「頭でっかちの学生の言っていることがよくわからない。安保問題より人間の生存が危ういと思うからだ」と答えたかな。2時間ほどしゃべっていたら、背中を向けていた編集長が「取材費をもらいに来たんだろ」と、10万円とフィルム30本を渡してくれた。

――写真の経験はあったのですか。

兄貴がアサヒペンタックスのカメラを持っていたので借りていけばいいと思っていた。カメラは一回も持ったことがなかった。インドのタージマハルの前で1枚撮ればいいと考え、実際に撮って義務は果たしたと。コルカタ(カルカッタ)で余ったフィルムを10本売ってもまだ20本あった。持って帰るのももったいないと撮り始めた。帰国してから副編集長に渡して終わりのはずだったんだ。旅行中のことを話したら、10枚書いてくれ、と言われて。

――記事が掲載されると思っていたんですか。

1枚が何字かもわからなくてね。「私の海外旅行」は800字ぐらいで、10枚書いたものからまとめるのかなと。すると、アサヒグラフで写真と一緒に10枚の原稿がそのまま「“インド発見”100日旅行」のタイトルで12ページ載っかった。「原稿料が出ているから取りに来てくれ」と連絡があり行くと、「もう1回書いてくれ」。それから原稿料をもらっては旅に出た。

――予想外の展開ですね。

まさかこんなことになるとはね。表現者になろうとはまったく思っていなかった。写真を始めたのは旅行資金がほしかったから。行って帰ってを繰り返し、食べていければよかった。10年間は写真家という意識すらなかった。突然やってきたどこの馬の骨かわからぬような青年の話を聞いて、ポンと取材費とフィルムをくれるなんて、いまのような管理社会では考えられない。最近は取材費なんかも出ない時代でしょ。いい時代に生まれて、いい時代に仕事をしたと思うね。(聞き手・川本裕司)=全10回

この記事からわかること(武内)

1  ダメと思われることでも飛び込んでみると、展望が開けることがある

2 藤原新也の語りには、自分の育った家族(父母、兄姉)のことがよく出てくる。家族思いの一面が伺える.

3藤原新也は、中高の時代は勉強せず成績もよくなかったということであるが、頭のよさは抜群で、高校時代に多くの本を読みふけったということが、その後の文章に反映しているのであろう。

4若い頃の遊び呆けていた時代の藤原新也の顔(表情)は、あまりいいものではない。