(人生の贈りもの)「私の半生」 藤原新也

「私の半生」という朝日新聞の夕刊に写真家・藤原新也が登場している。いくつか、私の知らないことも書かれていて面白い。特に、氏が写真家になったきっかけについては、はじめて知った。読んでいない人もいると思うので、以下に転載する。(2015年 8月4日、朝日新聞 夕刊)

■未経験の写真がいきなり雑誌掲載

――18歳で九州から上京したのですね。

中学のときに聴いたサンバギターをやりたいと、高校卒業後に東京へ出てきた。東京では遊び人をやっていて、こんなこと続けていると人間がダメになると思って、美術大学を目指した。

――1970年、雑誌『アサヒグラフ』の「“インド発見”100日旅行」がデビュー作だったんですね。

前の年、姉の付き添いで行った病院の待合室にあったアサヒグラフを開いたら、読者写真と短い記事による「私の海外旅行」というコーナーを見つけてね。イギリスからインドへ旅するための金がバイト代でも足りず、取材費を出してくれるかと、神田駅前の公衆電話から編集部にかけたんだ。「取材費は出ない。何か撮ったら持ってきて」と言われ、しゃくに障った。

――それからどのように。

有楽町にあった編集部に乗り込んだら、副編集長が『せっかく来たんだから座りなさい』と。同じ世代の人間が学生運動をしているのになぜ旅するのと聞かれ、「頭でっかちの学生の言っていることがよくわからない。安保問題より人間の生存が危ういと思うからだ」と答えたかな。2時間ほどしゃべっていたら、背中を向けていた編集長が「取材費をもらいに来たんだろ」と、10万円とフィルム30本を渡してくれた。

――写真の経験はあったのですか。

兄貴がアサヒペンタックスのカメラを持っていたので借りていけばいいと思っていた。カメラは一回も持ったことがなかった。インドのタージマハルの前で1枚撮ればいいと考え、実際に撮って義務は果たしたと。コルカタ(カルカッタ)で余ったフィルムを10本売ってもまだ20本あった。持って帰るのももったいないと撮り始めた。帰国してから副編集長に渡して終わりのはずだったんだ。旅行中のことを話したら、10枚書いてくれ、と言われて。

――記事が掲載されると思っていたんですか。

1枚が何字かもわからなくてね。「私の海外旅行」は800字ぐらいで、10枚書いたものからまとめるのかなと。すると、アサヒグラフで写真と一緒に10枚の原稿がそのまま「“インド発見”100日旅行」のタイトルで12ページ載っかった。「原稿料が出ているから取りに来てくれ」と連絡があり行くと、「もう1回書いてくれ」。それから原稿料をもらっては旅に出た。

――予想外の展開ですね。

まさかこんなことになるとはね。表現者になろうとはまったく思っていなかった。写真を始めたのは旅行資金がほしかったから。行って帰ってを繰り返し、食べていければよかった。10年間は写真家という意識すらなかった。突然やってきたどこの馬の骨かわからぬような青年の話を聞いて、ポンと取材費とフィルムをくれるなんて、いまのような管理社会では考えられない。最近は取材費なんかも出ない時代でしょ。いい時代に生まれて、いい時代に仕事をしたと思うね。(聞き手・川本裕司)=全10回

この記事からわかること(武内)

1  ダメと思われることでも飛び込んでみると、展望が開けることがある

2 藤原新也の語りには、自分の育った家族(父母、兄姉)のことがよく出てくる。家族思いの一面が伺える.

3藤原新也は、中高の時代は勉強せず成績もよくなかったということであるが、頭のよさは抜群で、高校時代に多くの本を読みふけったということが、その後の文章に反映しているのであろう。

4若い頃の遊び呆けていた時代の藤原新也の顔(表情)は、あまりいいものではない。