総進学率(粗就学率)について

高等教育の総進学率(粗就学率)という概念のあること、そしてその意義に関して、よく知らなかった。先日の野崎さんの報告から教えられた。不勉強というしかない。

「学校段階の教育制度計画上の相当年齢人口と、指定学校への全就学者との比率は粗就学率または総就学率と呼ばれる。」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B1%E5%AD%A6%E7%8E%87)

日本では、学校や高等教育に実際行く年齢と計画年齢(たとえば4年制大学では18歳~22歳)がほぼ等しく落第も少ないので、総進学率は純進学率に近く、これまで注目されないできたが、これから高等教育を受ける年齢の幅が広がったり、パートタイム学生が増えてくれば、この総進学率(粗就学率)の意味は大きくなってくる。
さらに、純進学率ではなく総進学率(粗就学率)という言葉を使うことで、高等教育を受けるということは、年齢にはかかわりなくライフスタイルに合わせて、また全科生だけでなく、自分の好きなまた必要な科目の履修だけをとるパートタイムの学生・院生という選択肢もあるという発想をとるようになり、高等教育(大学)の意味が変わってくるという。

パーティー、懇親会のこと

 フォーマル、インフォーマルを含めていろいろなパーティーや懇親会に参加する機会がある。その感想を、書いておきたい。

 私は、大学で助手を4年勤め、各種のパーティを企画し、またその後もパーティーや懇親会の世話役に回ることが多かったので、つい主催者の側から考えてしまう癖がある。そのことへの自戒も必要であろう。
 フォーマルな会は、事前にきちんと計画され、厳粛な中で、型通り行われることが必須であろう。厳粛さがなければ、その会は、締りのない、だらけたもので終わってしまい、後に何も残らないであろう。
 ただ、私自身はこのフォーマルな会が苦手で、そこのスピーチで失敗したらどうしようと、前から気になってしまう。(実際は当日準備することが多いのであるが)
 特に、結婚式に呼ばれ、最初のスピーチを頼まれた時など、この会の為にどれだけ周到な準備がなされ、新郎新婦だけでなく、親戚縁者、同僚、友人一同が集まっている中で、冒頭のスピーチが会の雰囲気に与える影響が少なからずあると思うと、いい加減なことは言えず、かといって型通りだと気持ちが込められず、苦慮することになる。
 ただ、場の雰囲気で、用意した内容を変えることも必要で,そのあたりの兼ね合いが難しい。一度、結婚式で3番目くらいのスピーチを頼まれた時、用意した内容が全く合わないと場の雰囲気から感じ、用意した原稿を捨て、その場でアドリブで話し、切り抜けたことがある(同じようなことを、学会の共同研究の発表でしたことが1回だけある)。

 参加者の側からすると、型通り進む会は、安心であるが、少し退屈で、次に何が起こるのかのドキドキ感もあった方が楽しい。主催者の側にそれがないと、参加者にそれは伝わらない。しかし、主催者の側は、失敗した時のリスクの大きさ(それまでの準備が台無しになる可能性もある)を考えると冒険はできない。

 フォーマルな儀式的な会ほど、誰が来てくれたのか、どれだけ遠方より来てくれたか、どれだけ犠牲を払い来てくれたかが気になるところであるが、できたら、このような形式主義は捨てた方がいい。会には、来たい人が来て、楽しむことが第1だからである。
 しかし、なかなかこのようにできないのが、実情である。昔、呼ばれた結婚式に、(研究室の先生たちと休みの日まで同席したくないという気持ちから)、出席を断ったが、後でいろいろ言われ、困ったことがある。

 アメリカ式(?)のパーティーでは、儀式的なことはほとんどなく、最初の挨拶も、途中も終わりの挨拶もなく、いつの間にか始まり、勝手に人と話して、いつの間にか終わるということがあるのではないか。最近日本でも、このような立食パーティーも多い。
 ただ、この立食パーティーは知り合いがいる場合はいいが、ほとんど知り合いがいなくて、全体の話もないと、ただ黙々と一人食べ飲むだけで、空しい思いをする場合がある。
 また、着席で、席の近い人とだけ話すような懇親会もあるが、これも、周りの人と話が合わないと、はずれの場合もある。
 それを考えると、このような会では、全体の儀式やスピーチやイベントを充実してほしいと思う。

 どのような会でも、行くまでは気が重いが、実際に行ってみると、いろいろな人に出会え、楽しいことも多く、行ってよかったと思うことが多い。
 それにしても、いろいろな予定の人が、同じ時刻に、同じ場所に集まれるというのは「奇跡」に近く、どのような名目であれ、それが企画されるというのはいいことで、感謝されるべきことではないかと思う。