桜散る

今日(14日)は雨で、桜の季節も終わり、栄華を誇った桜の花も散った。さすが花の女王さくら、散っても美しい。(写真は、市原市ちはら台)

放送大学 大学の窓

今日(14日)午後7時50分頃、放送大学の「大学の窓」をテレビで見ていたら、放送大学の学長の話の後、文京学習センターの紹介があり、その中で、自主ゼミの様子が映し出された。
それは、なんと私の自主ゼミで、2週間前、「少し映像を取らせて下さい」とカメラが教室に入って来た時のものであった。
インターネットでも、見られるというので、紹介させていただく。
 http://www.ouj.ac.jp/hp/eizou/mado/
 (平成24年4月8日~ 学習センターとは)

いまどきの若者について

 放送大学の卒業生から、「新入社員の若者がよくわからないので、若者論を読もうと思う。適切な本がないか」と尋ねられた。 さらに話を聞いてみると、その若者は、中高大とエスカレータ式で進学したもので(4大学の1つ)、必死で努力をした経験がなく、何事にも頑張りが足りないとのことであった。
確かに、受験競争が緩和され、のんべんだらりとした若者が増えたのかもしれない。しかし、このような一人のケースを一般化するのは難しいと思った。
 今の若者論と言えば、真っ先に、土井隆義氏の本をすすめたが、同時に今話題の若手の社会学者・古市憲寿の本もすすめた。
 古市憲寿の本に関しては、私が昔学部時代習ったことがある高名な先生から、下記のようなコメントを送っていただいたことがある(一部転載)。
 
古市憲寿著の「絶望の国の幸せな若者たち」、「希望難民御一行様」を読みました。
著者は「我が孫」とは言わないが、「我が子」よりもはるか若い世代。本の帯の「26歳社会学者による大型論考の誕生」というキャッチフレーズが飛び込んできた。冒頭に「これだけひどい状態に置かれて、なぜ日本の若者は怒らないのだ」という外国人記者の問いかけが登場する。それに対して、著者はにこやかに「日本の若者は、幸せだから」と答えている。
年寄り達は「今の若者は可哀そう」と同情するが、とんでもない、今の若者は一番幸せだという。なぜかといえば、適当に食えているし、同じ境遇同士で集まっては「ムラムラ」していて、それがいちばん幸せなのだそうだ。
「ムラムラ」という言葉は、若い者同士で小さな「ムラ」を作って、仲良くやっている状態を指しているらしい。仲良くやっているとはいっても、要するに同じ部屋にたむろして、片方ではテレビを見ているかと思えば、片方ではマンガを読み、もう片方ではギターを弾いている。めいめいが勝手なことをしながら、同じ部屋に溜まっているだけで幸せだという。こういう状態を「ムラムラ」というのだそうだ。これだけ言葉の意味が変わると、つくづく歳はとりたくないものだと思う。
また「この国にはなんでもある。ないのは希望だけ」という文章もでてくる。たしかにコンビニへ行けば今では何でも手に入る。しかし「希望」だけは売っていない。コンビニさえあれば、困ることはない便利な時代。もしかしたら、現代の若者から見れば、世界全体は「コンビニ的世界」なのかも。
「希望難民」とは、欲しいものは何でもあるのに「希望」だけが見つからないという難民同志で、ピースボートに乗りくみ、世界一周のクルーズに出かける幽霊船物語。船上では「平和と護憲を願う9条ダンス」を踊ったりするイベントがあるが、けっしてサヨクではない。結局114日間の世界クルーズの結果、どう変化が起こったのか。依然として「希望」は見つからず、「セカイ」も変わらず、「自分も変わらず」。しかし船上でできた仲間同士で、また集まってムラムラしている。
結論は、今の年寄りはよってたかって「今の若者」に「夢」を持たせようとしているが、なまじ夢など持たない方がよいという。むしろ「あきらめることが大事」。「セカイを変えること」など考えず、そういう大きなことは誰かに任せておけばよい。誰かがやってくれるから、そういうエリートに任せるに限る。
読み通してまず思ったことは「若いということは途方もない特権」。ただしその特権には、賞味期限がある。しかも使った途端に蒸発してしまうもの。
ただしこれも逆に老人のヒガミとやっつけられる危険性がある。そう思うのは私にも既視感があるから(そういえばこちとらも若い時はそういっていた)。結論をいえば、老人は急いで墓場のなかに逃げ込むに限る。

カエルの合唱の意味するもの

藤原新也はカエルの合唱について、最近次のように書いている。

今日はカエルの話をしてみよう。
インドの瞑想図にサートチャクラ(サートとは7つの意味。チャクラとは体の中にある瞑想に至る経絡上にあるツボ)というものがあり、私はこのサートチャクラの17世紀のものを持っている(いずれ公開する)のだが図の一番下にはファーストエッグという生命創世の球体があり、その上にカエルが乗っている。
カエルとは水から地上に両生するということで生命の源の動物とされるわけだ。 そういう意味ではその姿に似合わず神秘的な動物なのである。(中略)私はこの動物をリスペクトしている。というのはこの動物は集団で音楽を奏でるからだ。
海の波の音を聞き分けるように注意深く、カエルの合唱を聞くと、あるカエルの集団と別の集団は別々の音のウエーブを持っており、それが交互にハーモナイズするように音の波を描くのである。 その音のウエーブが聞こえ始めたらしめたもので(なかなかそのウエーブを感知するのは難しい、ある種の瞑想状態に入るとはっきりと聞こえる)脳内にアルファー波が生じるかのような快感がある。
このカエルのハーモニーを捉えた音楽がバリ島のケチャという合唱で、そこに指揮者がいないにも関わらず、おそろしく微妙なリズムや、その間に一瞬入る無音状態などを集団で奏でる。それは田んぼで鳴くカエルの合唱そのものだ。ケチャがカエルの合唱をルーツとするというのは私がバリ島で聞いたカエルの合唱とケチャがあまりにもよく符号しているということから想像した私独自の分析なのだが、さらにこの日本のことに言及するなら、お寺で奏でられるモクギョもあれはカエルの鳴き声を模したものと私は思っている。
モクギョは木の魚と書くが、その魚とはカエルのことだと思っているのである。というのはあのモクギョの形は魚の形ではなく、あきらかに大きな口をしたカエルが座った時の形だからだ。ポクポクポクポクというあのモクギョの音を聞きつづけると、ちょうどカエルの合唱のウエーブを感知したときのような瞑想感がある。
ということはバリのケチャという芸能も、仏教における音も、もとはと言えば自然というものに源を持っていると思うのである。
みなさん、今度法事のときなど坊さんのお経よりその木魚の音に耳を澄ませてみるといい。きっとカエルがそこにいてゲロゲロと鳴いているのに気づくはず。(藤原新也 catwalk,4月11日より転載)

上記の「なかなかそのウエーブを感知するのは難しい、ある種の瞑想状態に入るとはっきりと聞こえる)脳内にアルファー波が生じるかのような快感がある」という個所が興味ぶかかった。
3D絵本もそうだが、ある瞑想状態(?)の時のみ、見えたり、聞こえたりすることがあるということは、もう少し一般化して、ある見方を会得すると見たり聞こえたりすることがある、ということである。