定年後の生活

ひとりの知人は、定年後の生活に関して、次のように書いている。

<人の「一生」は短いものです。そんなことを考えると、今までの生活とは全く違う形の生活を想い描いてみたりします。いわゆる仕事からは全て身を引き、「街を歩き、いろいろ自然の中へ出かけ、本を読み、思索に耽り、また家事をこなし・・・」、そんな方が人間的なのではないかと。 仕事は確かにいろいろ魅力を持っています。自己実現、自己表出の機会であり、自分が社会に必要とされていると感じられることは、人間にとってとても大きなことなのでしょう。ただ、「仕事は人生の最良の糧であり、同時に麻薬なのかも知れない・・・」、などと考えたりもするのです。>

 上記の意見に、私は3分の1くらいは共感し、3分の2くらいは違うのではないかと思います。(共感部分はここでは省略して)
 第1に、定年後そのような優雅な生活を送る為には、貯えがなければ無理でしょう。今の年金額はだけでは、そのような好きなことをすることも好きなところに出かけることもできません。裕福な人の定年後の生活をすべての人にすすめることはできません。
 第2に、人はだいたい怠け者で、義務がなくなると、ずぼらな生活を送ってしまいます。 毎日が日曜日になると、読書や思索や運動をしようとしなくなるのではないかと思います。(少なくても私はそうです)。「~への自由」ではなく「~からの自由」というのが、人間の性(さが)なので、ある程度の、義務(仕事)が必要で、そこから自由になろうとしてこそ、楽しさがあるのではないでしょうか。

思想的な死(?)

以前の朝日新聞(3月27日夕刊)であるが、カン・サンジュン東大教授が、「吉本隆明を悼む -大衆に寄り添うゆえの変貌、丸山よりも『近代主義者』」という文章を寄せている。
 「大衆の『欲望自然主義』を無邪気に肯定する吉本」は、「大衆の実感に寄り添う吉本が辿らざるを得なかった必然で」「空前の原発事故を目撃しても、科学によって科学の限界を超えられると嘯いた吉本」は、「教祖の思想的命脈は尽きていたのである」と、書いている。
 上記の文章は、吉本隆明が、芥川の自殺に関して、それは人間的な死ではなく文学的な死である、と述べていることを、なぞっているように思えた。
 「芥川龍之介の死は、『歯車』や『阿呆末の一生』のあとに、どのような作品も想像することができないように、純然たる文学的な、また文学作品的な死であって、人間的、現実的な死ではなかった」(吉本隆明「芥川竜之介の死」『著作集7』昭和43年)
 つまり、吉本の死は、人間的な死ではなく思想的な死である、と。
こんなに厳しく言わなくても、藤原新也の紹介するインドの僧のように、自分を踏み越えて進むように「教祖」吉本から吉本「信徒」を解放させたのではないかと考えたい。

神田外語大学

昨日、海浜幕張にある「神田外語大学」をはじめて訪れた。4月から非常勤で「教育社会学」の講義を担当するので、その非常勤講師への説明会と懇親会が開かれたからである。
JR幕張駅からは徒歩20分と少し遠かったが、キャンパスは広く芝生がきれいであった。ICUのキャンパスを思わせられた。キャンパスの後方には幕張メッセの高層ビルがそびえ立ち、千葉とは思えない(?)都会的なたたずまいである。
立食の懇親会は200名近くの人が集まっていたが、その3分の1近くは外国人(西洋人)で、国際的な大学であることを思わされた。学生に会うのは来週からで、どんな学生なのか少し楽しみ。
 ホームページは http://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/

大学教員苦難の時代(?)

これはある非常勤の先生が言っていたことであるが、こんなことがあるのか?
 ある大学で、学生の受講態度を注意したら、その学生が怒って、受講者全員にその先生の授業評価で最低点を付けるように呼びかけ、それが実行され、その評価を見た教員は、ショックで自殺してしまったという。
 「学生に対する注意の仕方を考えなくてはならない時代になった」というのが、その先生のコメントであった。それに対して、ひとりの先生は、「学生も息抜きの時間が必要で、自分の授業では私語をしない限りどのようなことをしても許容している」とのことであった。 大学教員も大変な時代になっている。