「自転車に乗って」   水沼文平

仙台に居を移してから思い出の場所を車で走り回った。そして去年の暮、自転車(電動アシスト)を購入した。最初は車の通らない近くの道で練習をした。まっすぐ走れない、ふらつく、側溝に落ちそうになり急ブレーキを掛けた。

自転車との出会いは4,5才に遡る。父が乗る自転車の三角形のフレームの上辺に座布団を巻き付け、それに跨り、ハンドルを必死になって握りしている幼い自分の記憶が残っている。小学生の頃(昭和30年前後)はまだ子供用の自転車はなく(都会ではあったのかも知れない)大人の自転車に「三角乗り」をした。この三角乗りとは前述したフレームの三角形の中に右足を入れて、ペダルを半回転させながら進む乗り方である。少し背が伸びるとサドルに腰かけて足が届かないままペダルを蹴りながら放課後の校庭を走り回った。中学校に入ってから自転車を買ってもらい、その自転車で高校三年まで通学した。その頃の仙台は交通量も少なく手放し運転でかっこよさを競ったものである。その後は現在に至るまで時たま自転車に乗ることはあっても自家用は持たなかった。

少年時代は全く意識しないで乗っていたが、この年になって再度挑戦してみると、自転車乗りとは単に両足でペダルを漕ぎ両手でハンドルを操作するのではなく全身でバランスをとりながら運転していることが分かった。

車と異なり自転車の良いところはゆっくり走れるので家々の庭や路傍の花がよく見えることである。自転車を止め白いオオデマリの花に見とれているとその家の人に話しかけられたりする。自慢の花なのだろう。

家から5kmの街中の書店や銀行、10kmの根白石の政宗のお祖母ちゃん(久保姫)のお墓、15kmの宮床にある原阿佐緒(歌人)記念館を訪ねたりしている。目に沁みる青葉若葉の中を五月の薫風を受けながら走る爽快さは何にも例えようがない。

早朝、家の中で勝手体操をしているが屈伸運動をしていても体のぶれがなくなった。
最近はほとんど毎日自転車で走り回っていて、両手(時々片手)と右足だけで運転する車にはあまり乗らなくなった。

90才の女性が運転する車が起こした死亡事故のニュースがあった。事故の原因は専門家に任せるが、体力の衰えやふらつきなどの自覚症状がある高齢者には、体力を強化し、とっさの判断力と平衡感覚を養い、さらには可憐な花たちが発見できる「自転車乗り」をぜひお勧めしたい。

少し天邪鬼な見方

社会学は常識的な見方をするが、同時に世間の常識を疑うこともする。天邪鬼的なところがある。

日大のアメフット事件のテレビや新聞の報道を見ていると、ほぼ同じような見方ばかりで、それは常識(正論)なのだろうが、あまりに一つの見方の押し付けで、恐ろしくもなる。
QBを潰すことは、過去や他のチームでなされてこなかったのか(アメリカも含め、アメフットの試合を見てみる必要がある
https://www.youtube.com/watch?v=Z_AbNLwQXn8)
QBがボールを持っている前後に潰すプレイは反則ではないのか。

組織の中で個人の意見を正直に話すことはできるものなのであろうか。(このことに関して、以下に書く)

昔福島の原発事故の時、原子炉がメルトダウンしているのに、その時の政府(民主党)はそれを隠し、テレビで安全を強調していた(一方、事実を認識していた外国人は国外に脱出をはじめていた)。
後になって思ったのは、その時の政府(民主党)は国民に嘘をついてひどいなということである。同時に本当のことを言っていたら、日本国中が大変な混乱におちいったであろうとも思った。自分が政府の中枢にいたらどうしたであろうと考えてしまった。

昔NHKテレビで二人の知り合いが教育問題に関して対談しているのを聞いていて、立場の違いを感じた。
ひとりは教育社会学者の藤田英典氏で、もうひとりは文部大臣の町村信孝氏である。藤田氏の場合は学者なので自分の考えを自由に述べることができるが、町村氏は文部大臣という立場上、自分の考えだけを述べることができず、大臣という立場も考慮したぎりぎりのところで意見を述べていた。
緊迫したいい対談だったが、学者より大臣の方が大変だなと感じた。

ただこのことは、個人は組織の意向に沿って発言したり行動すればいいということを言っているわけではない。個人の発言や行動の自由というのは民主主義の基本でありそれは最優先されねばならないが、現実の社会の中での実行はかなり難しく、個人は自分の良心(信念)と組織の圧力のぎりぎりの攻防を強いられるということである。

絵について

美術(絵)についての教育は日本できちんとなされているのであろうか。
私自身は小さい時から絵は苦手で、小学生の時図工の時間に書いた絵を提出せずに家に持ち返った時もある(今でも心が痛む)。小中高ときちんとした美術教育を受けた覚えがない(美術の先生は教育者というより芸術家だったように思う。)
最近家人が、オーストラリアに行った折、アボリジニーの布に書いた絵を購入してきた。美術品というわけではないが、その土地の文化が何となく感じられ、絵の勉強はこのようなところから学んでいかなくてはならないのかもしれないと思った。
ネットで、アボリジナルアートについての解説を読む。

アボリジナルアート
大自然の中で狩猟・採集生活をしていたオーストラリア先住民が情報の記録や伝達のために使った絵画表現。彼等には「読む」・「書く」といった文字がないため、絵を描くことでコミュニケーションをとっていました。 もともと天然の粘土を使って砂絵として、身体の上にボディペインティングとして、または岩壁などに絵を描き生活手段として使われてきましたが、1971年にイギリス人の美術教師ジェフリー・バーデンの指導により、西洋のアクリル絵具とキャンバスによって描かれはじめたのが「アボリジナル・アート」の始まりとされています。
多くのドットとその集合により様々な世界を表現しています。元々動物や食用植物、水がどこにあるかを示すために幾何学的な模様を地面に描いて地図のように使っていました。その後キャンバスに描くようになってからこの点描画が誕生したそうです。
動物の骨格や内臓が透けて見えるように描かれます。これは動物の食べられる部位、食べてはいけない部位などを伝達するために用いられました。(https://www.webcreatorbox.com/inspiration/aboriginal-art

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追記  上記に関して、水沼さんより味わいのあるコメントをいただいた。掲載させていただく。

<アボリジニーが織った布に書いた絵の解説を拝見しました。
イギリスの作家、ブルース・チャトウィン(1940-1989)の「ソングライン」(英治出版) という本があります。
「ソングライン」はオーストラリア全土に迷路のようにのびる目にはみえない道のことです。文字を持たないアボリジニーの人々はその道々で出会った生活に必要なあらゆるものに名前をつけて歌にしながらオーストラリアという広大な世界を後世に伝えていったという内容の本です。
文字を持たなかったアイヌの口承文芸「ユーカラ」は節をつけ韻文で語られる長編叙事詩ですが、アボリジニーの口承生活百科「ソングライン」はそれに近いものだと思います。
4世紀後半に日本に漢字が伝わる前は、口語以外に絵や歌、身体表現が伝達手段として使われていたと思われます。文字の起源は紀元前4000年頃、西アジアで使われていた「絵文字」とされています。文字で歴史を綴ってきた文明国?と異なり、近現代まで文字を持たなかったアイヌ、アボリジニー、マオリ(ニュージーランド)などの伝達手段、生活、文化などを知ることは、文明国の人々が忘れてしまった「大切なこと」を思い出させてくれるかも知れません。
同様に文字を持っていなかった東北縄文人は赤ちゃんが死ぬと住居の側に瓶(子宮)に入れて埋葬しました。その瓶の中には瓶を割る小石が入っています。デイケアセンターのように女の子が老婆に肩を貸している絵が残っています。狩で手に入れた獲物(動物・魚)や採取した木の実は住民に平等に配分されました。
嘘つき、ルール無視、厚顔無恥、破廉恥、物金至上が罷り通っている現代日本ですが、アボリジニーの絵や音楽による万民のために役に立つ生活百科や東北縄文人が持っていた「命の大切さ(再生の願い)」「平等(正直に繋がる)」「弱者救済(優しさ・労わり)」などの理念や哲学を学んで欲しいものです。水沼文平>

形式より実質、動機より結果に責任を

教育の機会均等についての考え方は、形式的平等から実質的平等に移っている。つまり教育を受ける機会を形式的に平等にすればいいのではなく、実質的な結果が平等になっている必要がある。

 この考え方を、いろいろなところに当てはめればいいと思う。100%の移行は無理でも、少しでも形式より実質の方向に移すべきだと思う。
 
 犯罪などは動機が問われるが、それより結果の方に比重を移し、動機がどうあれ、結果により責任を持たせるようにすべきなのではないか。
 最近の政治や大学スポーツの世界の「言い争い」をみていると、動機(意図)がどうだったかが問題とされているが、動機(意図)に関しては当事者は誤魔化して言うし、当事者が意識しないこともあるので、そこで争っても埒があかないのではないか。
その点、結果に関してははっきりしている(「特定のところが認可された」、「傷害事件が起きた」など)ので、その結果に関して、責任を持つようにすればよいと思う。
リーダーたるもの,本人の動機はどうあれ、結果として生じたことに責任をとるべきであろう。(動機に関する「言い訳」を聞き飽きた)

カズオ・イシグロ『充たされざる者』(早川書房、2007)を読む

昔は、観た映画や読んだ本について、それらを既読(観)の人を探して感想を聞いたものだが、今はネットでコメントや感想を読むことができるので便利である。

カズオ・イシグロの「充たさざる者」(翻訳)は文庫で939頁の大作で、しかもストーリーや人間関係がよくわからず、なかなか読み進めず苦労したが、後半は一気に読め、よくわからないながらも面白かったなという感想をもった。
個人的には、老いてから奥さんを大事にしなくてはいけないなという教訓を得たが、本の主題はそのようなことにあるわけではなく、もっと文学的なところにあるのであろう。ネットに載っている解説や感想を読んで、いろいろ考えてみたい。

<カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読み終えた。中盤あたりを読んでいるときは正直なところ苦痛でしょうがなかった。一体何の話をしているのだろう、いつになったら話が進むのだろう、そんな疑問を抱えたまま物語はあちこちへふらふらと漂っていた。中盤を越えたあたりからなんとなく本全体の様相が掴め「そうか、これはカフカの城だ」と思うと妙におもしろく感じてきて途端に読むペースが上がった。>

<900頁えの超大作。問題作、まさに「充たされざる者」 主人公も読者も「充たされざる者」200頁までは正直。たいくつだった。眠気との闘い…。それ以降は面白くなってきてよかった。>

<ストーリーは、ライダーがピアノの演奏をするためにある国のホテルにやってきたところから始まります。 ただ、時間の流れが一体どうなっているのか、地理的にもここは一体どうつながっているのか。今はそんなことをしている場合ではないのでは? 大作ですが、セリフを中心に話が進んでいくので次が気になり、とてもおもしろく読むことができました。 ただ深いです。人生はこのようなものかもしれません。>

<老ポーターのグスタフに頼まれて会いに行った女性ゾフィーと、少年のボリスは、記憶がよみがえってくると、ライダーの妻と息子らしい。街や建物や人々も、見覚えがあるものもあるが、時により記憶が定かではない場合もある。これはライダーの記憶が曖昧なせいか、それとも彼が疲れすぎていて、状況をきちんと整理できていないのか。ライダーは自分の予定を確認し、重要なものから片づけようとするが、次から次へと別の用件が入り、思うようにいかない。>

<時間・空間・人間の関係をすべて歪めて、夢の中にさまよいこんだような物語。目的地にたどり着けない焦燥・状況の細かなところが分からない不安感、現在の人間と過去の自分の重なり合い。同じような夢を繰り返し見る自分にもそんなカフカ的状況が切迫してきました。>

<時間軸がはっきりせず、夢の中のよう。急いでいるのに目的地へ辿り着けず、次々と湧いてくる頼まれごとや他人の人生に巻き込まれる。どの登場人物も心は何処か病んでいる。使命感はあるが、何も果たせない虚しさ。最後の晩餐ならぬ焼き立てのクロワッサン朝食を味わえた人生だったと思いたいが。人の一生ってこんなようなものかもしれない。>

<それにしても,こんな小説を,あの完璧な「日の名残り」の後に何くわぬ顔で発表しちゃうんですよ。カズオ・イシグロは黒い。素敵すぎる。やっぱり化け物だと思います。>

(https://bookmeter.com/books/472269)
(http://lfk.hatenablog.com/entry/2018/01/13/213838)
(https://www.kinokuniya.co.jp/c/20130505101506.html)