絵について

美術(絵)についての教育は日本できちんとなされているのであろうか。
私自身は小さい時から絵は苦手で、小学生の時図工の時間に書いた絵を提出せずに家に持ち返った時もある(今でも心が痛む)。小中高ときちんとした美術教育を受けた覚えがない(美術の先生は教育者というより芸術家だったように思う。)
最近家人が、オーストラリアに行った折、アボリジニーの布に書いた絵を購入してきた。美術品というわけではないが、その土地の文化が何となく感じられ、絵の勉強はこのようなところから学んでいかなくてはならないのかもしれないと思った。
ネットで、アボリジナルアートについての解説を読む。

アボリジナルアート
大自然の中で狩猟・採集生活をしていたオーストラリア先住民が情報の記録や伝達のために使った絵画表現。彼等には「読む」・「書く」といった文字がないため、絵を描くことでコミュニケーションをとっていました。 もともと天然の粘土を使って砂絵として、身体の上にボディペインティングとして、または岩壁などに絵を描き生活手段として使われてきましたが、1971年にイギリス人の美術教師ジェフリー・バーデンの指導により、西洋のアクリル絵具とキャンバスによって描かれはじめたのが「アボリジナル・アート」の始まりとされています。
多くのドットとその集合により様々な世界を表現しています。元々動物や食用植物、水がどこにあるかを示すために幾何学的な模様を地面に描いて地図のように使っていました。その後キャンバスに描くようになってからこの点描画が誕生したそうです。
動物の骨格や内臓が透けて見えるように描かれます。これは動物の食べられる部位、食べてはいけない部位などを伝達するために用いられました。(https://www.webcreatorbox.com/inspiration/aboriginal-art

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追記  上記に関して、水沼さんより味わいのあるコメントをいただいた。掲載させていただく。

<アボリジニーが織った布に書いた絵の解説を拝見しました。
イギリスの作家、ブルース・チャトウィン(1940-1989)の「ソングライン」(英治出版) という本があります。
「ソングライン」はオーストラリア全土に迷路のようにのびる目にはみえない道のことです。文字を持たないアボリジニーの人々はその道々で出会った生活に必要なあらゆるものに名前をつけて歌にしながらオーストラリアという広大な世界を後世に伝えていったという内容の本です。
文字を持たなかったアイヌの口承文芸「ユーカラ」は節をつけ韻文で語られる長編叙事詩ですが、アボリジニーの口承生活百科「ソングライン」はそれに近いものだと思います。
4世紀後半に日本に漢字が伝わる前は、口語以外に絵や歌、身体表現が伝達手段として使われていたと思われます。文字の起源は紀元前4000年頃、西アジアで使われていた「絵文字」とされています。文字で歴史を綴ってきた文明国?と異なり、近現代まで文字を持たなかったアイヌ、アボリジニー、マオリ(ニュージーランド)などの伝達手段、生活、文化などを知ることは、文明国の人々が忘れてしまった「大切なこと」を思い出させてくれるかも知れません。
同様に文字を持っていなかった東北縄文人は赤ちゃんが死ぬと住居の側に瓶(子宮)に入れて埋葬しました。その瓶の中には瓶を割る小石が入っています。デイケアセンターのように女の子が老婆に肩を貸している絵が残っています。狩で手に入れた獲物(動物・魚)や採取した木の実は住民に平等に配分されました。
嘘つき、ルール無視、厚顔無恥、破廉恥、物金至上が罷り通っている現代日本ですが、アボリジニーの絵や音楽による万民のために役に立つ生活百科や東北縄文人が持っていた「命の大切さ(再生の願い)」「平等(正直に繋がる)」「弱者救済(優しさ・労わり)」などの理念や哲学を学んで欲しいものです。水沼文平>

形式より実質、動機より結果に責任を

教育の機会均等についての考え方は、形式的平等から実質的平等に移っている。つまり教育を受ける機会を形式的に平等にすればいいのではなく、実質的な結果が平等になっている必要がある。

 この考え方を、いろいろなところに当てはめればいいと思う。100%の移行は無理でも、少しでも形式より実質の方向に移すべきだと思う。
 
 犯罪などは動機が問われるが、それより結果の方に比重を移し、動機がどうあれ、結果により責任を持たせるようにすべきなのではないか。
 最近の政治や大学スポーツの世界の「言い争い」をみていると、動機(意図)がどうだったかが問題とされているが、動機(意図)に関しては当事者は誤魔化して言うし、当事者が意識しないこともあるので、そこで争っても埒があかないのではないか。
その点、結果に関してははっきりしている(「特定のところが認可された」、「傷害事件が起きた」など)ので、その結果に関して、責任を持つようにすればよいと思う。
リーダーたるもの,本人の動機はどうあれ、結果として生じたことに責任をとるべきであろう。(動機に関する「言い訳」を聞き飽きた)