映画「かぐや姫」を観る

スタジオジブリの高畑勲監督の「かぐや姫」(2013年)をテレビで観た。
このようなアニメ映画を作るのに膨大な年月(8年)と人手それに費用(50億円)がかかっているという。
「日本の四季と豊かな自然の中で生き、時に荒々しく感情を爆発させ動き回る、かぐや姫を生身の人間として描いた物語であり、心に刺さるリアルな物語でもあった。ざっくりした描線で描かれたキャラクターと水彩で描かれた美術が美しく融合する。個人作家が用いる手描き線を生かす表現は、長編アニメーションでは困難を極めるが、高畑監督はこの表現にこだわり抜き、日本のアニメーション界の素晴らしい画家たちの力を結集し実現させた」という評がネットで紹介されているが(https://ja.wikipedia.org/wiki/)、その通りなのであろう。
ただ、登場人物がかぐや姫を含めあまり魅力的な人がいないのが、残念であった。
これは高畑監督の女性観や人生観なのであろうか。
描かれたかぐや姫は幼い頃は活発で自由奔放であり、成長して知的な美少女になるが、周囲の意向に合わせる控えめな日本女性になり、魅力的でなくなってしまう(ように思う)。
これは、昔の日本の男の描く理想的女性像としては当てはまるかもしれないが、時代錯誤を感じる。
高畑勲監督はこの映画で何を描きたかったのであろうか(「姫の罪と罰」?)

大学同窓(同期)会

大学の学部の学科(教育社会学コース)で2年間半一緒だった同期6人で(今は5人)1年に1度会うようになってもう10年近くになる。
歴史好きな人が多く(私を除く)、昨日(5月15日)は、JR国分寺駅に集合し、そこからI氏の車で、武蔵国府跡や大國魂神社を見学し、歴史に詳しいI氏よりレクチャーを受けた。I氏の博学ぶりには本当に感心する。
昔を懐かしみ、近況を報告し合うだけでなく、これからの国の行く末に関しても議論をして、有意義な会となっている。来年も皆健康で、会が開けるとうれしい。

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追記  仙台に戻っている水沼文平さんより、同窓会に関して下記のメールをいただいた。

仙台に戻って7月で丸2年になります。
高校を卒業して五十有余年それぞれの道を歩んできましたが、高校同期約80名で「三九学遊会」という同期会を作り、年に3回集合、講演2名と懇親会で旧交を温めています。
これ以外にも小人数で大学主催の講演や歴史散策、近郊温泉への一泊旅行などを楽しんでいます。その日その日を大事にかつ楽しみたいと思っています。
「政宗晩年の詩」
<馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずして 是を如何にせん>
今日友人の一人が入院したという連絡がありました。明日見舞いに駆けつけます。
私が初めて見る我が家の庭には、ノギク、シラン(紫蘭)、サツキなどが咲いています。野良猫3匹が毎日通ってきます。こんな近況です。水沼文平

欺瞞について

佐伯啓思「1968年は何を残したか 欺瞞を直視する気風こそ」(5月11日、朝日新聞朝刊)を読んで、同世代として共感するところがあった。

「私は、あるひとつの点において「全共闘的なもの」に共感するところがあった。それは、この運動が、どこか、戦後日本が抱えた欺瞞(ぎまん)、たとえば、日米安保体制に守られた平和国家という欺瞞、戦後民主主義を支えているエリート主義という欺瞞、合法的・平和的に弱者を支配する資本主義や民主主義の欺瞞、こうした欺瞞や偽善に対する反発を根底にもっていたからである。」「日本の左翼主義は、その後、急速に力を失ってゆくが、私には、それは、多くの人が感じていた戦後日本のもつ根本的な欺瞞を直視して、それを論議の俎上(そじょう)にあげることができなかったからではないか、と思う。沖縄返還問題にせよベトナム戦争問題にせよ、その根本にあるものは、米軍(日米安保体制)によって日本の平和も高度成長も可能になっている、という事実であった。そのおかげで、日本は「冷戦」という冷たい現実から目を背けることができただけである。この欺瞞が、利己心や金銭的貪欲(どんよく)さ、責任感の喪失、道義心の欠如、といった戦後日本人の精神的な退嬰(たいえい)をもたらしている、というのが三島の主張であった。」(朝日新聞5月11日、朝刊より転載)

 氏は、全共闘や三島由紀夫の欺瞞を排する心情に共感しながらも、その行動が「ごっこ」だったという江藤淳の鋭い指摘を紹介している。

「そのころ、評論家の江藤淳が「『ごっこ』の世界の終ったとき」と題する評論を書き、全共闘の学生運動も、三島の私設軍隊(楯〈たて〉の会)もどちらも「ごっこ」だと論じていた。学生運動は「革命ごっこ」であり、三島は「軍隊ごっこ」である。どちらも現実に直面していない。真の問題は、日米関係であり、アメリカからの日本の自立である、というのである。」(同上)

ただ、現実の世界、実際の生活はあいまいなものであり、欺瞞に充ちているので、そのあいまいなもの欺瞞的なものを受け入れ生活せねばならないのが現実である。
ここで大切なのは、現実の行動よりはその心情ではないかと思う。行動がたとえ欺瞞に充ちていても、心情的には欺瞞であることを自覚し、外からそれが欺瞞であると見破られやすいように行動するのであれば、それに対して人々はタテマエ上非難をしても、軽蔑することはないのではないか。
悪いのは、欺瞞を欺瞞と意識せず、表と裏を使い分け、その使い分けをもわからないようにして、人をだます手法である。
これは人にも政党にもあてはまり、人々から見放さられる。

母の文化―「教育原論」第4回の冒頭の記録

 前回(4月27日)は、親子関係の話をしました。これは皆さんが今の親子関係を考える上でも、また親になった時でも、教師になって子どもの親子関係を考える時に必要なことかと思います。
 母と父では役割が違い、父は「切断する」(良いことをしたら褒め、悪いことをしたら叱る)のに対して、母は「包み込む」(どんなことをしても許してくれる)というところがあります。
 この二つ(父と母)は対立というよりは違うもので、その両方が必要のように思います(長方形の縦横の面積のように。この面積の広い人が、人格的にもバランスの取れた人のように思います)。また、母の愛のないまま育つと、人への信頼感を持てず、冷たい人に育ってしまうように思います。人のあたたかさは、母の愛に比例するのでしょう。
 またこれは、実際の父母でなくてもよくて、実際は父母の役割が逆転したり他の人が取って代わってもよいものです。幼くして里子に出された夏目漱石や幼くして母を失った江藤淳が人間的にあたたかいのは、母に替わる人がいたからだと思います。
 
 日本は、母なる文化の国で、西洋は父親的な文化の国だと言われています。
 文化人類学者のベフ・ハルミの子育ての日米比較や、江藤淳の『成熟と喪失―母の崩壊』の冒頭部分をコピーして配り、その説明をしました。
 前回読んでいただいたシルバスタイン著・村上春樹訳の「大きな木」も、母の子に対する無限の愛のように読めます。

 これは今日の追加の資料ですが、江藤淳の『成熟と喪失―母の崩壊』の中に、遠藤周作の小説『沈黙』に関する解説があり、キリストの絵を踏む主人公が父なる神を信仰しているというより、日本化した母なるキリストを踏み(裏切り)、その許しを乞うという日本的な物語になっているという秀抜な読みがあります。それだけ、日本には母の文化が蔓延しているのです。

 さだまさしの「生まれた理由」という曲が我々の心を打つのも、そのような母の文化の歌と聞くことができる為と、私は思います。(2016年7月24日のブログ参照)

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学校について考える 1

敬愛大学・教育原論・第4回のリアクションを記録に残しておく。
聞き手は新しいといえ、「いつも同じことを話すのは大学教師として失格ではないか」という思いをいだきつつ、「一つ資料を新しくしたのでいいか」と言い訳しつつ、授業を行った。

教育原論リアクション(第4回、2018年5月11日) 学校について考える
1 前回リアクション(4月27日)を読んでの感想
2  学校はどのような理由で作られたのか(学校の起源)?(公教育;西洋&日本の学校の成り立ちをテキスト14~18頁から読み取る)
3 家庭と学校の違いは何か(プリント⓵参照)
4 学校の教科で教えられる内容の特質は何か(プリント② 教科内容 参照)
5 隠れたカリキュラムとは何か(プリント⑤ 隠れたカリキュラム、テキスト 94-95頁参照、)
6 学校の教師と児童・生徒の関係は、どのようなものか。どのような問題があるか(プリント⓺ 教師―生徒関係 参照)
7 他の人からコメントをもらう。
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