作家の言葉

「生きることは失うことと同義だ、日々を過ごしているだけで私たちは何かを失う。失わない人生はあり得ないのだ」 「失うことはマイナスでもプラスでもなく、何かを持っていたという証しだ」

上記は、作家・角田光代の言葉である(星野博美『のりたまと煙突』解説、文春文庫)。
作家は、本当に、的確な言葉を探し出すものだと感心する。

社会学者の作田啓一の『恥の文化再考』(筑摩書房)という名著がある。R・ベネディクトの『菊と刀』の内容を、日本文化の内容を加味して再考したもので、太宰治の『斜陽』などの分析を取り入れ、文学的な香を感じる本である。恥に関するさらなる緻密な分析は、『価値の社会学』(岩波書店)でなされている。
私達が恥を感じるのは、「視線の食い違いによる』という指摘が心に残っている。自分は相手にとって「かけがえのない存在」(個別)だと思っていたのに、相手からは「多くの人のひとり」(普遍)としか思われていないということが分かった場合、その二人の視線が食い違い、恥ずかしさを感じるというものである。デートに誘って断られた時の恥ずかしさは、これで説明できる。
 私がこの2年間ぐらいで、一番恥ずかしと思ったことは、(電動アシスト自転車で転んだことではなく)、「女性優先車両」に気が付かずに乗ったことである。たまたまその日は朝早く(7時半ぐらいだっただったと思う)、いつも乗る1両目の先頭車両に駆け込み、ドアのそばに立ち本を読んでいたら、どうも周囲の人の視線が厳しい(「千葉ってこんなに女性の目が冷めたかったか」とのんきに思っていた)。1駅(といっても快速電車なので10分)先で、女性優先車両であることに気が付き、あわてて降りた。 
このときの恥ずかしさはしばらく消えず、恐怖心に変わり、今でも電車に乗るたびに、この車両は私の乗っていい車両なのかと、周囲をキョロキョロ見渡すことになる(それを決して挙動不審と思わないでほしい)。早くこのことを忘れ、気持ちよく電車に乗り、本を読みたい。

神田外語大学での授業

今日(27日)の神田外語大学での「教育社会学」の授業では、「アメリカの教育」について講義した。前回のコメントから、神田外語の学生が、アメリカの教育やアメリカ留学について、関心を持っていると思ったからである。
今日は、授業のはじまる大分前に教室に行き、今日の講義内容の要点を黒板に書き、プリント1枚とリアクションの紙を用意し、ビデオの準備をして、チャイムと同時に授業がはじめられるようにした。(ここ2回授業に遅れがちだったので、その名誉挽回で)
話した内容の1つは、アメリカの小学校教育の特質である。私が昔wisconsinのMadisonの小学校で観察した様子(①異文化への許容性、②個人中心の時間割、③考えさせる授業、④教科指導中心の教師の役割等;「アメリカの教育事情」『上智大学教育論集30号』平成8年)と、渡辺雅子氏の『納得の構造』(東洋館出版社)から、時系列と因果律で論理を組み立てる日米の違いについてである。
もう一つの内容は、NHK特集1987年2月23日「エリートはこうして作られるーアメリカ‘ハーバード大学」のビデオを見せて、日米の大学や授業や学生の様子を比較し、合わせ鏡にして日本の大学のことを考えるというものである。
学生は熱心に私の話とハーバード大学に関するビデオを見てくれた。コメントはこれから読み、学生が何に関心を示したかを確認する。