傘がない

東京成徳大学の「青年文化論演習」の授業で、井上揚水の「傘がない」に対する副田義也先生の分析を紹介した(『遊びの社会学』)。1970年代に入り、学生運動が終焉して、若者の関心が社会的なことから私的なこと(恋愛や自分の心理)に移ってきたという分析である。
歌を聴いてもらおうとしたら、ひとりの学生が携帯(スマートホン)で、YoU-Tubeにアクセスし、歌をかけてくれた。料金もかからないという。本当に便利になったものだ。

授業では、彼は君(彼女)に会いに行くのか? 「君」や「雨」や「傘」は何を象徴しているのか?ということで盛り上がった。そこで、「今度カラオケで歌ったら」と言ったら、「こんな暗い歌、歌ったら、友達から何があったのと心配されます」との返事。
やはり、昔の歌は、時代遅れなのか。

http://www.youtube.com/watch?v=PRKFNbUWHjA&feature=related

日本高等教育学会第15回大会

私も会員である「日本高等教育学会第15回大会」が、6月2日(土)~3日(日)の2日間、
東京大学(本郷キャンパス)で、開催される。
既に、プログラムが、ホームページに出ている。誰でも無料で参加できる公開シンポジウムもある。
http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/taikai/

藤原新也のサイン本をいただく

藤原新也氏より、石牟礼道子との共著『なみだふるはな』(河出書房新社、2012年)のサイン本を贈っていただく。
(これは、私だけがもらったのではなく、CATWALKの会員の希望者に抽選で送られたものである。それにしても、高い倍率の抽選に当たるとはラッキー)

以前に、私は藤原新也氏のサイン会に並んだことがある。その時の様子は下記( http://6115.teacup.com/m83s/bbs/?page=8& より転載)

藤原新也のサイン会に行く2009年 9月14日(月)

いくらミーハーとはいえ、私の歳で、サイン会と行くというのは、気恥ずかしかった(しかも初めて)。でも、一度、藤原新也の実物を見たいと思い、神田の三省堂に、出かけた(サイン会は、11日の18時から)。1時間ほど早く着いたので、久しぶりに古本屋街を回ることがでた(まだ、古本屋街は健在であった.)
 20分ほど早めに行き、本(『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』東京書籍、2009年9月)を購入(2冊目)し、整理券をもらい(38番)、会場の脇の階段で並んで待つ折、見渡すと、8割方男性、2割方女性で、40歳台、50歳台の人が多かった。何やら共通の雰囲気をたたえた人達並んでいるのが、おかしかった。
 サイン会では藤原新也が、一人一人に、達筆で名前まで入れてサインをして話しかけ、握手までして丁寧に応対していた。藤原新也らしいと思ったが、同時に、有名人のオーラがなく、あまりに普通の人なので、びっくりした.
藤原新也は、サイン会について、次のように書いている(HPより転載)
<盛況 -今サイン会が終わって帰ったところだ。150名近くの方々が来てくれてサインをするとともに一人一人気を込めて握手をした。わざわざ遠くからこのために来てくれるのだから、何か得るものがないと意味がないからだ。以前にも書いたことがあるが、サイン会というものはかりにそこで100部や200部の本が売れたとしてもたかが知れている。私がなぜ率先してこのような一見無駄に思えることをやっているかというと、読者の顔が見えるのはこの場面をおいて他にないからである。作家というものはどこの誰かわからない世界に向かってメッセージを発信しているわけだが、折に触れ実際の読者の顔を見たいというのは表現者として正常な神経ではないかと思うのである。本屋の店頭で恥を忍んでこういうことをやる意味はそこにある。逆に言えば、そういうことに無関心な者の神経が分からない。>
 わたくし自身は、話しかけられるとは思ってもいなかったので、「本は読まれましたか?、どうでしたか」と聞かれ、きちんとご返答ができずに、悔しい思いをした。
 私の藤原ファン経歴はそれほど古くない。最初に読んだのが十数年前の『アメリカ』である。短期の旅行者でもない長期の滞在者でもない中期の旅行者の視点で、しかも長くインドを旅行したアジアの視点から書かれた『アメリカ』は、斬新で衝撃的だった。一瞬にして、ことの本質を捉えてしまうカメラマンの視点というのも感じた。愛読書だった江藤淳の『アメリカと私』などとは全く違った視点でアメリカを捉えていた。その後は、インド紀行関係、また現代世相批評関係、随筆、写真集を購入、読んだ。
 今回の本は、「あとがき」に書かれているようにいつもの本とは少し違う感じがする。読んでいて、じーんとくるものがあり、少し戸惑いを感じる。特に浦島太郎(「尾瀬に死す」)やコスモスの話しには、心動かされるものがある

授業評価について

学生による授業評価というものは、どこでも盛んである。学生消費者主義の時代、「納税者」(授業料支払い者)の意見をきかなければいけない時代に、当然であろう。しかし、いくつか留意すべき点もある。
1 授業評価は大学の自己評価の一環とした文部科学省から実施の要請があるにしても、どの程度の実施をするかは、考慮の余地はあると思う。私の以前に勤めていだ大学では、学部ごとの裁量に任され、私のいた学部では、隔年で教員1科目につき、授業評価ではなく、「授業改善アンケート」がなされていた。
2 学生による「授業評価」に関しては、批判もある。有名なものとして千葉大名誉教授の宇佐美寛先生の『大学の授業』(東信堂、1999)、『大学の授業の病理―FD批判』(東信堂、2004)がある。知識も学習意欲ものない学生に授業の評価をさせるのは無理であり、授業評価により、学生に自分が授業を評価できる[偉い人間]だと誤った認識をさせることになり、教育上よろしくない。大体そのような趣旨であったと思う。一理ある。
3 授業評価の質問項目の中に、学生の授業への出席率や学習意欲を問う質問を入れ、それとのクロスをとり、真面目な学生とそうでない学生の授業評価の違いもわかるようにする必要はあるだろう。
4 授業評価は実施するにしろ、どのような趣旨でやるのか(評価というよりは授業改善の為の方がいい場合が多い)、その為にはどのような実施方法が適切か、その後データの処理(提示方法も含む)の方法も考慮し考えるべきと思う。

 大学における私語について

学生の勉学態度は、昔に比べ真面目になっているように感じる。しかし、授業中の私語がなくなっているわけではない。私語をしている学生を観察すると、それは、最初特定の学生であることに気付く。ただその一部の私語を放置すると、段々それは教室中に広がっていく。それでも私語を迷惑と感じる学生は少なくない。
 最初に私語する学生は、授業を静かに聞く態度が全く身についていないように思われる。体は隣の席の学生に向き、教科書や配布されたプリントも見ようとしない。隣と(あるいは前後と)話していないでは1分といられない。このような授業態度は大学入学以前に身につき、習慣となっている。したがって少し注意したところで簡単に直らない。ただ、怖い教師の時はおとなしくするという処世術は身につけている。そして怖い教師の時おとなしくしていた分だけ、次の時間にやさしい教師の授業などがあると、その反動で話し続ける。
 学生消費者主義という考え方がある。授業料を払っている学生のニーズに答えた授業を展開するのが大学教員の務めである(特に私学)。大学の費用が主に授業の為に支払われていると考えれば、私学で1回90分の授業に、一人当たりだいたい3000円くらいのお金が支払っていると思うので、こちらもそのくらいの内容は話したいと思う。
 しかし、授業中に私語があると、それが気になり、集中力は落ち、話が散漫になる。授業の途中で、切り上げて終わりにしたくなる(実際そのようにした場合もある)。
 でも、教師が散漫な話をしたり、授業を途中で切り上がる行為は、高額の授業料を払い、授業を真面目に聞きに来ている学生消費者の要求に答えていないことも確かである。
 これまで、私の中に、授業中に蔓延する私語は、教室にいる学生の連帯責任のように感じていたように思う。しかしどうもこの認識の改めなくてはいけないようだ。授業料を払って授業を真面目に聞こうとしようとするものを妨害する権利は、同級生と言えどもない。授業を静かに聞く権利を保障するのも教師の役割であろう。
 ただ、高い授業料を払い、授業に出て来ても私語をして授業を聞いていない納税者(消費者)に対して、我々は、「叱責」以外どのようなサービスを提供すればいいのだろうか?