元新興住宅地

私の母の住んでいる千葉県市原市ちはら台は、今から4半世紀前に住宅公団が分譲した1戸建ての住宅地である。山林や原野を切り崩し整地し、そこに各ハウスメーカーが建て売りの住宅を建てた。まだバブルの絶頂期で、都心の住宅地が高くて手の届かない庶民が、駅から遠く不便を覚悟で、高い抽選倍率を経て、購入したものである。都心に近い浦安の新興住宅地(今回液状化の被害を多大に受けた場所)に比べ、3分の1くらいの値段だったと思う。
小奇麗だけど同じような感じの家が作られたことから、藤原新也は、それら郊外の新興住宅を「ショートケーキ・ハウス」と名付け、揶揄していたように思う。歴史も文化も個性もない家々という意味であろう。
それから4半世紀経過し、その住宅地はどのようになったのであろう。ひとつは、駅から遠く(バスで10分~15分)、交通は相変わらず不便で(千葉からの外房線は本数が少ない)、都会のような活気は見られない。もう一つは、計画的に植えられた樹木は大きくなり(綺麗な桜並木もある)、各家庭は庭にも趣向を凝らし、個性的な佇まいになっている。
 住宅選びは、交通の便をとるか、環境をとるかの二者択一になっている(両方が得られるのは富裕層のみ)。今の若い人は後者をあまり選らばす、都心を選ぶようになっている。したがって、老若の住み分けが進行しているように思う。

介護

我々の世代は、介護の問題を避けて通ることはできない。それぞれさまざまな形で対処していることであろう。上野千鶴子が言うように、介護保険制度のおかげで、どれだけ助かっているかわからない(上野千鶴子・古市憲寿『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』光文社新書、2011、p78-79)。
うちでも90歳になる母親の介護をきょうだい3人で、交代で見ているが、週3~4日、日中母を世話してくれるデイケヤセンターの存在はとてもありがたい。介護保険で料金が安い(実際かかる費用の10分の1)だけでなく、親身の介護をしてくれる(それも若い夫婦が。とても感心する)その間に、介護している妹たちは、自分の家の家事をしたり息抜きをしたりできる。
 私がしていることは、せいぜい週末に妹たちと交代し、出来あいの総菜を買ってきて母に食べさせたり(味噌汁は作れる)、母親を車椅子に乗せ、散歩するくらいである(男はどうも役に立たない?)
 少子化の中で、我々の世代は、誰が介護してくれるのであろうか。心配である。

大学における代返について

 授業で出席のチェックも兼ねて、リアクション・ペーパーを配り、書いてもらうことが多い。それに対して、健気に(?)、欠席した友だちの分も書いて提出する学生がいる。
代返は教師(私)を欺く行為であり、それをされた方としてはあまり気分のいいものではない。でも、友だちの為に、文章まで書く「友情」は称賛すべきことかもしれない。
 以前に非常勤講師で教えていたS女子大では、各自1枚の出席カードに毎回、自筆で名前を書くようになっていた。その日に署名のある学生の名前を呼んで意見を求めたら、誰も返事をしない。2人目も呼んだが同じであった。気まずい空気が教室に流れた。そこはスル―して、学生に気が付かれないようにして、その日の出席署名の数と実際の出席数を数えてみた。すると署名は30名、出席数は20名であった。10名の代返があったことになる。授業が終わって専任の先生に尋ねてみたら、「そのようなことはよくあることですよ」と言われた。そこは教員養成の学科だったので、教師の卵はこのような嘘(代返)をついていいのかと、愕然とした。一方、友だちの代返をするのなら、最後までその友だちになりすまし、友だちが指されたら答えるくらいの気概がほしいと思った。
 しかし「教師は教えたがり、学生は遊びたがる」は古今東西の教師と学生の関係であると、潮木守一先生は書いている(『キャンパスの生態誌』中公新書)。それから考えると、代返も、「教えたがる教師」と「遊びたがる学生」のゲームのようなものかもしれない。代返をめぐる攻防をゲームと考え、それを楽しめばいいのかもしれない。
 最近見つけた代返は、たまたま私が名前を覚えていた学生が欠席し、その日のリアクション・ペーパーにその名前のあることから気が付いたものである。教師(私)が気が付いていないと思うのは学生も甘い。この始末をどうつけよう。ペナルティーか、それとも「友情」への称賛か。

大学における私語について(その2)

大学における私語についての文章(5月8日)を、学生に示し意見を求めた。私は学生から、「先生の授業の内容や方法に問題があるから私語が多くなるのですよ」とか、「私語は教育社会学の研究になるとは驚きです」とかいう反応があることを期待した。
しかし、そのような反応はなく、一言、「学生は何も考えていないじゃないですか」と言われた。大きな肩すかしをくらわされた感じ。

最後に動き出した明治大学

今日(5月17日)は、放送大学(文京学習センター)から帰ろうとしたら、同じ建物にある「筑波大学 大学研究センター」で、大学職員向けの「大学マネジメントセミナー」」の第1回が開催されていたので、聞かせてもらった。
テーマが、「最後に動き出した大規模私立大学」というのが興味深く、講師は明治大学教学企画部長の御子柴博氏であった。(受講者は200名近くいた、私語ひとつなく、皆熱心に聞いていた)
明治大学は創立が1881年(明治14年)と、歴史のある大学であるが、1953年から2003年まで50年間、学部の改組もなく、何も改革してこなかったとのこと、それでも潰れることなく、現在に至っているという。明治大学は、1955年は、一部24458名、二部10618名と、3分の1は、2部(夜間)の学生だったとは驚きである。それが現在(2012年)は、2部を廃止し、学生数32583名、専任教員数825名、職員数537名の大規模な大学になっている。改革が遅れた理由として、各学部の独立性(教員は明治大学○○学部教員ということに誇りを持っている)、学生運動(入学時に大学が一括徴収した自治会費が学生セクトに渡っていた)の存在が挙げられていた。現在は、リバティータワー、アカデミックコモンはじめ、大学を象徴する大きな建物も建ち、グローバルCOE,グローバル30はじめ、多くの政府資金を獲得し、さまざまな改革も進め、学生が多く集まっている。
その秘訣は、全学的な見地に立っていた職員も大きな役割を果たしたこと、長期計画もなくゆっくりとした助走をしてきたことにあるという。
自然体で、篩にかけ、いいものを残していったような感じの大学である。学生は、「明治ですから」「明治でもできる」が自然に口から出てくるという。

http://www.rcus.tsukuba.ac.jp/pdf/2012pdf/RcusUMS0902th.pdf