素直な、優しい心を大切に

どこの大学でも教育学を学ぼうと思う学生は、子ども好きで、心優しい人が多いように思う。学校でいじめられて自殺した子どもが書いた遺書を読んでもらうと、涙を流し自分が教師になったらこのような悲しい思いを子どもたちに絶対にさせない決意する学生が多い。一方、社会学を学ぶとする学生は、そのような心情に一歩距離を置き、子どもは純真だけでなく計算高い面があり、遺書の書き方にもある意図が働いていると読むのではないか。

教育学と社会学の境界領域の教育社会学には2つの流れがある。1つは教育学に近い「教育的社会学」(Educational Sociology)。こちらは教師の為の教育社会学で、教育実践のための社会的条件を探ろうとする。もう一つは社会学に近い「教育の社会学」(Sociology of Education )。こちらは、教育実践には関心がなく、教育やそれを取り巻く社会の仕組みを鋭利に客観的に見ようとする。別の言い方をすれば、傍観者的に、意地悪く、皮肉に教育と社会の関係を見ようとする。何よりも分析の切れ味を大事にする。

私が上智大学で「教育社会学」の授業を担当した時、目指したのはどちらかというと後者の客観的な分析を目指す「教育の社会学」であった。受講した教育学科の学生から、「先生の教育社会学を学ぶと、人が悪くなります」と言われたことがある。当時は、そのことを気にも留めなかったが、この歳になるとそのことが気になる。

人はいつも損得(功利)を考え、差別意識を持ちながらそれを隠し、善意には裏があり、他者や社会の為よりは自分の利益の為に行動するものという人間観や人生観を、教育社会学の授業を通して教えようとしたわけではない。教育を客観的にそして批判的に見ることは大事ということを言いたかっただけである。学生たちが、教育社会学を学ぶにしても、人の善意を信じ、素直な優しい心を、大切にしてほしいと願う今日この頃である。

村上春樹『一人称単数』(2020)を読む

ネットのおかげで助かっていることがある。その一つが、本や映画やドラマの感想を、ネットで見ることが出来ることである。以前であれば、それらを読んだり見たりしてのわからない箇所や、自分の感想が特異なものなのかどうかを確認するためには、誰かにそれを読んだり見たりしてもらったりしなければならなかった。今はネットで検索すれば、すぐ他の人の感想を見ることが出来る。 今回村上春樹の最新刊の短編集『一人称単数』(文藝春秋、2020.7)を読んで、久しぶりに村上ワールドに浸った心地よさと、わけのわからないモヤモヤ感を抱きながら、その理由は何だろうと思ったが、ネットで他の人の感想を読んで、そのいくつかは解消した。それを転載しておきたい。全体には、村上ファンは同じように感じるのだなという印象。

・7つの短編が収められた作品集。どれも村上春樹ワールドがいっぱいで長編にはない楽しさが詰まっていて面白かった。ほとんどの作品に共通するのは、主人公に絡むユニークな女性。村上さんにしか出せない独特の人物像でした。それと、これも全てに出てくる音楽。ジャンルはクラシックからジャズ、ビートルズまで様々だが、物語にぴったりと溶け込んでいてベストマッチでした。歳を重ねてもその作品世界にあまり変化はなく安心した。良い作品集でした。 

・『一人称単数』というタイトルからは私小説のようにも受け取れるが、おそらくそうではないだろう。読者を煙に巻くようなユーモアやウイットに富む独特の文体。忘れ去ってもよいようなたわいもないエピソードから導き出された物語の深さ。私たちは彼にナビゲートされ、いつしか自分も心の深奥へと降りてゆき、ともに懐かしみ、痛みを分かち合い、そしてそれが記憶に鮮明に残る意味を考える。人は皆「一人称単数の私」として存在し、人生の分岐点で様々な選択を強いられる。その記憶の断片から、今ここに存在する私とは何者かを問いかける短編集だ。

・久しぶりの春樹さん短編集です。期待どおり、健在なハルキワールドにしっかりと仕上げてくれています。8編からなりますが、どの話も春樹さんならではの不思議さ、世界観がこのうえなく凝縮されています。やはりなんと言っても「品川猿」が登場したのがハルキストには堪らないですね。

・私小説のような短編集。好きな音楽、応援している野球チームなどはきっと本当なんだろう。だけど、途中からフィクションが混じって本当との境が見えなくなってくる。自分視点で語られること、自分視点だけで完結すること。それが一人称単数なのだろうか。表題作の普段なら着ない服を着ることでの違和感、些細な出来事で見える景色が変わることはわかる気がする。時折訪れる理不尽な虚無感とそこで感じる揺らぎを隠さず見せることもまたこの作品の魅力だと思う。相手の真意はわからないままでも。「東京奇譚集」の続編が読めたことも嬉しかった。

 ・ふしぎな読後感 。途中でこれは小説じゃなくて、 本当にあった話 なんじゃないかって 疑いたくなるような 一人称による小説。 私は好きだったのは、品川猿。 品川猿は群馬県にいるんだって。 やはり村上春樹さんの小説は、ゆっくりと一人で、コーヒーでも飲みながら読むと、2倍も3倍も楽しいよね。  

・「月並みな意見かもしれないが、僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。光線の受け方ひとつで陰が陽となり、陽が陰となる。正が負となり、負が正となる。そういう作用が世界の成り立ちのひとつの本質なのか、あるいはただの視覚的錯覚なのか、その判断は僕の手には余る(「謝肉祭Carnaval)より)」そんな手には余る世界は(つまりは春樹の小説は)、今日も謎を生み、だからこそ生きる(読む)に値するのだろう。(https://bookmeter.com/books/16082299?page=1

短編集の最後にあたる「一人称単数」では、終盤、語り手「私」は、ある女性から糾弾されることになる。「私」が「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」を指して、「そんなことをしていて、なにか愉しい?」と。この気取った「私」の振る舞いは村上春樹的なイメージを戯画化しているようであり、したがって、女性の批判は村上春樹そのものへの批判にも思える。その点が面白い。 ( https://news.yahoo.co.jp/ )

追記 

村上春樹は、好き嫌いや評価が分かれる作家である。「こういう小説を書いて、村上春樹自身は救済されるんですかね、やっぱりこの人はサクセスを求めているだけなんです」(小倉千加子)、「九百枚に伸ばせるような力量が何もない」(上野千鶴子)、「美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか」(小谷野敦)、「『村上春樹の小説は、結婚詐欺の小説である』(蓮實重彦)というような評価が識者の中にも多くある(https://ja.wikipedia )。私の知り合いからも、「本の売り方があざとい」「音楽のことが全く分からないのに知ったぶりの傲慢な解釈、薄ぺらな文章、サリンジャーの村上訳には吐き気を感じる」などの感想を聞いたことがある。一方、村上春樹が嫌いだった人が「羊をめぐる冒険」を読んで衝撃を受け、評価を変えた人もいる。何故、村上春樹に対する評価が分かれるかは謎である。もともと文学や映画や音楽の好みは、人によりいろいろなのかも知れないが。

追記2 知り合いの文学研究者のH先生より下記のコメントをいただいた。

(放送大学の学生で)村上春樹が嫌いだという人も相当数いて、彼ら彼女らはいかに村上春樹が嫌いなのかについて、とうとうと語られるのです。つまり、好きであろうと嫌いであろうと、読後何かを語りたくなってしまうという点で、読者を巻き込む力が村上春樹の文章にはあるのだと思います。そのような作家は稀有ですし、嫌いな人もその時点で村上春樹の作品にそれだけの力があるということを証明してしまっているのです

韓国映画『私の頭の中の消しゴム』(2004)をみる

自分は少しミーハーで流行を追いかけているように思っていたが、そうではないことを知った。15年前に流行った映画のことをほとんど知らなかった。映画『私の頭の中の消しゴム』(2004年)を、ソン・イェジンが主演というので今回はじめてみた。 日本で上映された韓国の興行映画のうち、歴代2位の記録を持つ映画である。当時全く知らなかった 。よくできた映画だと思った。アカデミー賞映画『パラサイト』(2019年)より、出来はいいのではないかと感じた。。今回もネットの解説を転載しておく。

「号泣必至の不朽の名作!『私の頭の中の消しゴム』消えゆく記憶に負けぬ愛エンタテインメント」 「建設会社の社長令嬢のスジンと、建築家志望の建築作業員チョルスは運命的な出会いで恋に落ちる。チョルスは育った環境の違いから結婚を拒んでいたが、スジンの献身的な愛に結婚を決意するのだった。チョルスが建築士の試験に合格し、幸せな新婚生活を送っていた矢先、スジンは自分の家への道順すら忘れてしまうほど物忘れが激しくなる。病院で検査をすると、若年性アルツハイマー症だと診断されて・・・」

「原作は日本のドラマ『Pure Soul~君が僕を忘れても~』(2001年、読売テレビ制作)。原作では、序盤ですぐに妻の病が発覚し、そこからの家族のストーリーが濃密に描かれているが、この映画ではスジンとチョルスのコンビニでの運命的な出会いから、結婚にいたるまでの葛藤、そして愛情を深めていく過程に重きを置いている。不倫相手の上司に裏切られて心に傷を負ったスジンが、口は悪いが心が温かく純朴なチョルスに好意を抱き、孤独に生きてきたチョルスは、温かい家庭で育った天真爛漫なスジンに惹かれてゆく。お互いに欠けたものを求めるように愛しあい、お互いの傷を癒してゆくのがとても自然に描かれて感動的。また、スジンの説得によって、チョルスが自分を捨てた母親を許すエピソードも、2人の愛の深まりを感じさせる効果的なスパイスになっている。シンプルなストーリーだが、印象的なエピソードの積み重ねが心に残り、2人の愛が美しくドラマチックなほど、スジンがその記憶を失ってしまうことが一層悲しく感じられる。コカ・コーラ、トランプの手品、バッティングセンター、チョルスのローションなどのキーアイテムの織り交ぜ方や、スジンの気持ちの高まりを表現するように流れるオペラやラテン系の音楽も印象的だ。

ヒロインは、ドラマ『愛の不時着』で再びの全盛期を迎えているソン・イェジン。2003年にドラマ『夏の香り』や、映画『ラブストーリー』で人気を博した彼女は、その翌年に本作に出演。不倫に涙して化粧がドロドロに落ちた顔から、お嬢様らしい品のある表情、チョルスの前で魅せる満面の笑顔、病気を知っての絶望に陥った表情、そして記憶を失くした虚無の表情までを繊細に表現し、”メロドラマの女王”との称号を得た。 一方、チョルス役のチョン・ウソンは、ドラマには滅多に出演しない根っからの映画俳優。アウトローのイメージで、男くさい作品に出演することが多かったが、本作ではそのイメージを活かしつつもラブストーリーということで女性ファンが倍増。」(安部裕子 https://allabout.co.jp/gm/gp/1193/)

韓国ドラマ「個人の趣向」(全16話)をみる

韓国ドラマ「個人の趣向」(2010年)は、今話題のドラマ「愛の不時着」(2019-20)のヒロインのソン・イェジンが主演のドラマで、今から10年前のラブコメドラマ。「愛の不時着」のソン・イェジンが主演ということで、最近見た人が多いのではないか。ネットで感想をみると、ドラマとしては普通(5点満点の3点台が多い)、主演のソン・イェジンは可愛く、演技が上手、最近のドラマに比べ服装がダサいという評価もある。別の言い方をすれば、ソン・イェジンが20代より30代に素敵になったということである。(ネットより、感想をピックアップする)

「コメディ要素は楽しめた」「ストーリーがありきたりすぎて間のびだけど、ソン・イェジンの笑顔はつい引き込まれる」「可愛くて面白いソン・イェジンの演技に注目です」「愛の不時着セリ役の女優さん、この役の服装が残念、ちょっと痛い」「ソン・イェジンの演技力の幅を知る。ガサツだけどピュアで不器用だけど一所懸命なケイン役を違和感なく演じている」「このドラマに出てくるメインの女優陣は総じて演技力が高い印象」「序盤はテンポ良く進んでいたものの、後半からのテンポがダラけて、回想シーンがやたら多く挟まれてしまったのが残念だった」「個々のキャラクター設定は確立してたと思うけど、ストーリーが予想通りすぎて少し物足りなかった。半分くらいに凝縮させることもできた」(https://filmarks.com/dramas/6126/8716

歴史への関心について

人はなぜ歴史に関心を持つのであろうか。ものごとの起源を知り初心に返るためや、未来を予測するのに過去からの流れを知る必要があるという理由によるのかしれない。ここにきて、いくつか歴史に関する記述を読んで、少し違った見方もあるのではないかと思った。。

 1つは、(7月20日のブログで紹介したが)村上春樹が『猫を棄てる』に書いている歴史観がある。<「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。(中略)一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。>

 2つ目は、朝日新聞デジタル7月25日に社会学者の大澤真幸が、司馬遼太郎の作品の解説をしながら、次のように述べていること。<「司馬氏が歴史作家として本当にやろうとしたことを、僕の言葉で言うと『我々の死者を取り戻す』ということだったと思います」「これはナショナリズムや愛国心とも絡んでくることなのですが、人間が『世の中のためによいことをしたい。公共的なことをしたい』と心の底から思うためには、『我々の死者』を持つことが必要です。『我々』、つまり自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々が過去にいて、僕らはその人たちのおかげで今、生きている。僕らは彼らからのバトンを受け、よりよい社会をつくっていく――。そんな確信があって初めて、私たちはこの世界に自分の居場所を得て、社会のため、他人のために生きていくことができます」

3つ目は、評論家の加藤典洋が、『敗戦後論』(ちくま学芸文庫、2015)で、太平洋戦争で死んだ日本兵の供養を、韓国や中国の犠牲者への謝罪や供養と同じようにすべきと言っているのも、日本人の歴史の継続という意味を込めているように思う。

4つ目は、1932年生まれ(87歳)の寺崎昌男先生(東京大学名誉教授)が最近『日本近代大学史」(東大出版会、2020)という500頁にも及ぶ大冊の歴史書を書き下ろし発刊されたことである。<ともかく蛮勇を振おうと思ってやり上げました。このところ文字通り蔟生しつつある若手の研究にも刺激されながら、これを書いておかねば瞑目できないと思って書きました。>とおしゃっていたが、日本の大学の歴史を、後世に引き継ごうという寺崎先生の熱い思いのなせる業であろう。

このように、「自分たちの共同体のために生き、死んでくれた人々が過去にいて、僕らはその人たちのおかげで今、生きている。僕らは彼らからのバトンを受け、よりよい社会をつくっていく」(大澤)ということ自覚がある故に、歴史に関心を持つということなのかと考えた。

日本人の過去になしたことを、良いことも悪いことも含め、次の世代に引き継いていくのが、歴史への関心である。 司馬遼太郎のなし得なかったことを村上春樹もやろうとしている、また多くの歴史家の仕事もそれに通じるように思う。

「私たち日本人は太平洋戦争の敗戦で、『我々の死者』を失ってしまった。『先に死んでいった人々のおかげで、今の私たちがある』と言うよりも、『その人たちのやってきたことを否定する』という形で戦後の歴史は始まったわけですから」「司馬氏の『愚かな戦争をしたが、日本人の歴史すべてが悪かったわけではない。我々の死者として受け継ぐに足る人々がいたはずだ』という強い思いが、戦国時代から幕末・明治維新へと連なる幾多の歴史小説として結実した。「司馬氏はこの作品(「坂の上の雲」)以降、太平洋戦争に至るまでの時期を歴史小説として書くことはなかった。それはなぜなのか。」頂点に位置し、現代に最も近い時代を舞台としたのが『坂の上の雲』でした」「しかし、『我々の死者の物語』を紡げたのはぎりぎりそこまでで、それ以降のことは小説としては書けなかった。」「太平洋戦争敗戦の時点から歴史をさかのぼっていくと、満州事変などが起きた昭和初期に問題があったことは疑い得ない。とすれば、その前の大正時代にも問題の兆しを見ないわけにはいかない。ぎりぎり、ポジティブなイメージで書けるのが日露戦争までだった、ということなのだと思います」「『日露戦争までの日本人はギリギリ、ポジティブに捉え得るのではないか』という司馬氏の問題意識は、誠実だし重要です。仮に日露戦争期の日本もダメだった、ということになると、幕末・維新以降の日本の歴史を全否定しないといけなくなるわけですから」「『我々の死者』を何らかの形で取り返さなければ、戦争で犯した失敗も取り返せない、という感じが、私たちの中には確かにある。司馬氏の最終的な狙いもそこにあったと思います。 「敗戦の屈辱を取り返すために、まずは豊かな国に追いつくということから始めた。それを達成すると、次はやはり、『日本人は何のために、何をよきものとして追求していくのか』ということを考えざるを得ない。そうなると、僕たちを歴史、時間の中に位置づけてくれる『我々の死者』が必要になることを、司馬氏は体で感じていたのでしょう」 「司馬氏が本当にやりたくてできなかった『大正・昭和の《死者たち》を取り戻す』という困難な課題にどう取り組むのか。僕たちが今、『坂の上の雲』を読む意味は、そこにあります」「ナショナリズムを乗りこえるには、『我々の死者』を捨て去るのではなく、現代の私たちと『我々の死者』との関係をきちんとつけた上で、その先に行く、という筋道が必要になります」 「戦前、戦中の日本を無批判に肯定する人も一部にいますが、それをやると逆に『戦後の日本』を全否定することになってしまう。問題があったことを認めた上で、我々の死者をどう取り戻すのか。司馬氏からのバトンを受け継ぎ、残された歴史の空白を埋めるのは、私たち自身の課題です」( 大澤真幸   朝日新聞デジタル7月25日 )