大相撲を生まれて初めて観戦

この歳になるまで、とてもポピュラ―でありながら、見たことがないこと、行ったことがないところ、体験したことがないこと、というのは、たくさんあるような気がする。
たとえば、「東京タワー」に上ったことはない。しかしこれは、いつでも行ける気がする。サッカーの実際の試合を見たことがない。これはいつか行ってみたい。

今日は思いがけず、大相撲観戦のお誘いを受け、生まれて初めて大相撲というものを、身近で見ることができた。
大相撲観戦は、私の小学生の頃(60年近く前)から憧れのことで、その頃は、家にテレビがなく、近くの銭湯へ大相撲の中継を見る為に通っていた。
その後は、テレビで見、次の日の新聞でそのニュースを見るという、平均的日本人の生活を続けてきた。それでも、実際の相撲を見るという機会は、これまでなかった。

今回、生まれたはじめて身近で大相撲というものを見て、伝統の重みというものを感じた。大相撲は江戸時代から始まったのかと思ったら、そうではなく、奈良時代からあったという。
<奈良時代、村々で行っていた農作物の収穫を占う祭りの儀式が宮廷の行事となり、天皇や貴族の前で相撲を披露する、「相撲節会(すまいのせちえ)」が行われるようになった。
 (「相撲の歴史」日本相撲協会 http://www.sumo.or.jp/ticket/kansen/history.html)

横綱白鵬の土俵入り、各力士の仕切りや取り組みに、長年の伝統の重みを感じた。出ている力士は、モンゴルなど外国勢が多いが、その中に日本的なものが受けつがれているのが不思議であった。
席は、土俵正面のかなり土俵に近い升席で、知り合いの方と楽しく飲食しながらの贅沢な観戦で、一生の思い出になりそう。

放送大学学生 K氏との会話(メールのやり取り)

 年齢、専攻、関心などが違い、またメールなので、すれ違っている部分は多くあるが、放送大学の学生との会話は、スリリングである。普通の大学の学部の学生とこのような話はあまりできない。

<K氏からのメール>
「女の子たちは…….二者間での「けんか」の中に周囲で見守る聴衆を引き入れ、聴衆の判定をけんかの勝敗の重要な要素に加えていくのである」と、Goodwin教授は分析している(山田富秋「子ども社会学の可能性」『子ども社会学への招待』ハーベスト社、2012、P227)。
「相手にとどめを刺しちゃいけません。あなたはとどめを刺すやり方を覚えるのではなく、相手をもてあそぶやり方を覚えて帰りなさい。そうすれば勝負は聴衆が決めてくれます」(遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』)遥洋子は唸った。「本物は違う!」。
上二つの類似性というか全く同内容に、社会“科学”を呼称する上野千鶴子女史、並びに女史に理事なるポストを与える日本社会学会の姿勢に呆れる。
『地球が周っているか?(地動説)それとも太陽が周っているか?(天動説)』の判定を“聴衆”が決めえるモノなのか?“人の思惑(ニンゲンの都合)”を超えたモノに対しては民主主義国家であっても多数派の道理が“科学的”である事ではない事は自明であったりするのに…..
「大人中心主義批判」は「おとなは子ども文化の卒業生」だと云うのなら“成長する過程で覚えた“社会性やコミュニケーション能力”を“嘘と騙しと駆け引きの能力”だと解すれば、自分をもその獲得した能力によって騙る≪自己欺瞞≫に依って、“人の本性”が診えにくく成っていると仮定すれば、“子ども社会学”の視点は“大人を対象とする社会学”より“人”の本性への考察に有益かもしれない。長谷川寿一・眞理子教授の『動物生態学・進化心理学』との親和性も、そこに有るのかもしれない.
だからこそ「アヴァロンの野性児」の「児童の生物学的素因」が考慮されていない解釈に、残念な気持ちに成らざるを得ない.
≪人と自然との共生≫なる言葉に“人”の傲慢さを感じる時、≪“人”も自然の一部である≫「人間も一動物にしか過ぎない」と云う当たり前の事実を何故忘れるのか?と唯、不思議に想う
“成長する過程で覚える≪自己欺瞞≫”は“人”の中にある“動物的(野性的)”なモノ(非人間性?)を欺瞞する能力のなのか?、と“人文科学”を診て想う.
(発達障害者は)文化や社会が造るその前に負わされた欠落、生理的(生物学)なモノ、障害や“性別”を非人間性と云って、なかった事の様に欺瞞されるのは無意味な労苦を障害者、障害児童に負わせるだけの生物学(ニンゲンの都合を超えたモノ:非人間性?)を軽視する学問、教育論は“当事者”として、たいへん困ったものだと思っています.
誤解なき様に繰り返せば≪人間とはこうあらねばならない(もしくは人間は動物とは違う存在だ)≫という視点、“科学”を僭称していながら既に“人間とは~”という偏見に基づく解釈に終始していることも知らない“社会科学(日本社会学会みたいな?)”ではなく「子ども文化の卒業」条件が生物学的要素(非人間性?)を“自己欺瞞”と云う能力に依って≪人間とは~≫が“常識”になる≪大人中心主義≫ではなく、非人間的(非大人的)「子ども文化」を社会学とするところに“科学”として期待していたりしています.

Kさんへ(武内のメール)
鋭い考察、ありがとうございました。Kさんの書いていることは、納得できる部分は多いのですが、学会に関しては、誤解があるように思います。
学会は新興宗教や政党の派閥のようなものではなく、誰でも会費を払えば、入会できるところなので、思想や信条、学問的姿勢等に関して、右から左まで、さまざまな人がいます。また、それが許されるところで、多様な議論ができる場です。理事も会員の選挙で決まるので、多様な人がいます。確かに、学会によって、入会する人の傾向はあり、類似の人が集まりますが、主流でない人が、はじき出されることはありません。
Kさんが、ジェンダー論者(その代表と思っている?)上野千鶴子が嫌いのようようですが、(それは生得的なものをあまり認めないので?)、ここは少し待ってほしいという気持ちです。
1つは、ジェンダー論にはさまざまなものがあるということ。生物的なものを認める論者もいるでしょう。
2つ目に、上野千鶴子の著作は膨大なものがあります。上野千鶴子のように、政治的な発言をする人(私は講演を3度ほど上智大学で聞いたことがあります。そのうち、フェミニズムの宣伝のような講演はかなり聞き手を馬鹿にしたものでしたが、「戦争と女性」を論じたものは、学問的で素晴らしいものでした)。上野千鶴子の学問的な著作も読んで下さい。言葉尻を捉えて、批判しても意味がありません。
第3に、自分の好き嫌いや立場から、人の論を読んでしまうのは仕方がないとしても、それはなるベく避けるように、努力すべきだと思います。かえって、自分とは逆の立場の人の論を、なぜそのような論の展開になるのか、辿ってみることも、時に必要です。
第4に、権威を批判するとき、知らずに、自分も権威によりかかってしまうことがあります(高名な学者が言っている、学会で認められている、世間で自明なことであるなど)
第5に、社会的なことは、100%そうなるということはなく、(水は引力で100%下に落ちるように、自然科学の分野では絶対はありえるかもしれないが)、せいぜい 60~80%くらいの確率で起きることを、断定的に論じることが多いと思います。ただ、社会的なことは断定的に論じたとしても、それは絶対ではなく、そうでない可能性はかなりあるというのが、暗黙の了解事項だと思います。そのような自然科学と社会科学の違いにも自覚するする必要があります。

Kさんの返事
先生!ありがとうございます、生意気な言説に丁寧に御応え頂けて。
社会学にたいしても“ウ~ん”と唸らせる凄い論説を読む事もあります、でも“ラディカル・フェミニズム”の様な“運動”が“学問”顔をして話していたりもします。“ジェンダー”でさえ根に生物学的事由を認め、そして、それぞれの素因を元に(性差による特性を生かす様な)新たな“ジェンダー”を造りだす様な、それは、“発達障害”という障害は生理学的事由に有る事を認め、そして、それぞれの不得手を支援する(それぞれの能力を伸ばす)新たな“障害者支援体制”を造り出す様な、“男性中心社会”の中でのジェンダーと云うのなら“健常者中心社会”の中での“障害者への視点”も、また“障害も社会的なモノ”になり、“女性だけでなく障害者、高齢者も含めた”宣伝のような講演会でも行ってくれたらと(あれだけ影響力がある方なのですから)残念に思うだけです.
権威に寄り掛かるも世間で自明であるなどの事は≪『地球が周っているか?(地動説)それとも太陽が周っているか?(天動説)』の判定を“聴衆”が決めえるモノなのか?“人の思惑(ニンゲンの都合)”を超えたモノに対しては民主主義国家であっても多数派の道理が“科学的”である事では無い事は自明であったりするのに…..≫より天動説の世の中、地動説を唱える者に寄るべき権威も世間で自明である等との主張は出来もせず、ただ“道理”を独り“語って”いくしかないのだとも想います。
まともな自然科学者は(相手を罵倒しようと理論の正しさには素直だったニュートンとベルヌーイやフェルマーとデカルト)は言ったそばから“自分”こそ間違っているのではないかと相手の“言葉”を聴きます、自分の都合の良い“話し”ばかりを聴くのでは無く“自分の論”に不都合な“嫌い”な話し程、“調べたり”します、何故なら“自分”の仮説は“誤り”でありより良い真説があるのなら“自説”なんてどうでも良い、なぜなら、ただ“答え”が欲しいからです。
  先生が昨日仰った“大学は彼らを護る(守った)”の話し“好き”です.僕”が出入りしている研究室にも今、問題になっている国々からの研究員の方々が一緒に研究して下さってくれてます.“僕”も不当に何らかのコトが彼らに降りかかる様なコトでも有れば“僕”も彼らを守りたく想います、でも、もちろん“僕”は“大学”ではありませんので、“友人”として彼らの傍にいたいと思っています.
P.S.  「犬“種”」に寄ってそれぞれの気質・性格が違うのなら「“同じ種”である“人類”であっても(同じ日本人であっても)」、気質・性格は“犬種”に依る違いの様に生得的な違いがあることを想定することは“自然(当然)”な事ではないのではないでしょうか?、“社会”という大規模構造(森)を考える時、個人(木)の集合体が“社会”であるのですから、それぞれの“人の特性”(木)={生物学的要素}を考慮に入れなければ『“木”も識らずば“森”も知れず、況や“林”のことも診る事も出来ず』だと想います、ちなみに“林”の意味するところは“教育&子ども社会”を指していたりします.