ヒロシマからフクシマへ

原発に関する表立った反対行動より、原発に関する社会学的考察の方が、
人々を脱原発に駆り立てる役割を果たす場合もあると思うことがある。すぐれた社会学的考察を目にした。

「ヒロシマでもっと苦しんだはずの市民が、いかにして「原子なるもの」を受け入れてしまったのか。その答えは、意味転換にある」「意味転換の前にもいくつかの操作がわれわれは行っている。第1に意味漂泊である」「それはヒロシマという負の歴史から、ヌ―クリアのみを脱文脈化することであった。第2に、相反する意味の連結の正当化である。」「ヌ―クリアに対する積極的な正の意味付与である。個人の幸福の根源、日本社会の戦後復興に必要なエネルギーの無尽蔵の供給源として、未来の明るい日本社会を支えるものとして、ヌ―クリアは新しく生まれ変わることになる」

野宮大志郎氏(上智大学外国学部)の「『ヒロシマ』から『フクシマ』への道―ヌ―クリア(原子なるもの)の意味転換」(「ソフィア」236号、2012.2、p420-436)には、ヒロシマで核の恐怖を持った日本国民が、原子力発電でもたらされる「豊かな社会」を無意識に享受するようになったメカニズムが鮮やかに分析されている。
そこには、戦後日本の原子力エネルギー政策、国際政治、マスコミの力の他、
知識人の果たした役割も描かれている。たとえば、「大江健三郎は、科学者として東海村原子力発電所で働く夫妻を取材し、その活躍と彼らの明るい未来を示唆する」(「毎日グラフ」1961年9月3日号)など。

「わたくしにとっての上智大学」

上智大学で同僚だった香川正弘先生は、最新の「ソフィア」(236号)に、「私にとっての上智大学」というエッセイを寄せている。なかなか含蓄のある内容であった。印象に残った3点を抜きだし、コメントを付して置く。
1 (上智大学で)「授業をすることによって、教える側が視野を拡大し成長もできたのは、学生に基礎学力があり、学ぶ心ができたいたことと、全学的な教育体制が学生を成長させているからであると思う」と書かれている部分には、共感した。
ただし、上智に学生を成長させる全学的な教育体制が意図的に作られていたかどうかは疑問。優秀な学生が集まり、学生を成長させる雰囲気(文化)があったことは確か。
2「ある時、官庁の人から、審議会や委員会では、東大、早慶上智は委員長にしていいことになっていると説明をされたことがある」とある。
同じようなことを私も聞いたことがある。これは過去の上智の教員の実績によることなのか、その理由を知りたいと思った。ただ、このような暗黙の取り決めがあるとすると、上記四大学以外に失礼だし、人的ロスもかなりあるのではないかと思った。
 3 「もっぱら大学開放の観点からののみの発言であった。しかし、それもたいてい受け入れられないので、三つの職場とも学内では黙っているという状況で終わってしまった」 
これは、香川教授が一番無念であったことのように思う。なぜ、香川教授の大学開放の理論が、「コミュニティカレッジ」の伝統のある上智大学でも生かされなかったのか、今後考えてみたい。

古い世代の役割

古い世代の新しい世代への対処の仕方として、藤原新也は興味ぶかい例を紹介している。しかし、このようにしなくても、「古新関係」、師弟関係は、新(弟)が古(師)を、楽々と超えているように思うが。

インドを旅して6年目、ある僧侶(私の著作『黄泉の犬』に出てくる私に僧衣をくれた人)から面白い話を聞いたことがある。
その僧侶は言った。ベンガル地方のガンジス川のデルタ地帯にあたかもデルタ地帯の小さな島々が洪水のたびに消え、またどこかに現れるように、消えてはまた現れる面白い宗教があったと。
その千人規模の小さな宗教サークルの僧正はシバ・プラーナと言う老人で、様々な生き方や人生の教えを説いた。しかし宗教サークルの信徒たちが、その僧正の教えに帰依し、全幅の信頼を置きはじめた時、突然豹変し、誰が聞いても理に合わないことを唱えはじめ、信徒を惑わせはじめるというのである。
例えば毎年デルタ地帯を襲うサイクロンによって、多くの子供たちが流された時、他の宗教サークルでは、インドの古来より伝わる代受苦の思想を説くことで、子供たちの死が決して無駄なものではないと説き、親たちの心を癒すのが常であったが、シバ・プラーナは子供たちは罪人(つみびと)であるから死んだのだと、親たちの気持ちを逆撫でするようなこと言った。(中略)
シバ・プラーナに全幅の信頼を寄せていた信徒たちは喧々諤々と様々な個人的な意見を述べはじめ、あるいは抗議し、ついには十人百人千人とシバ・プラーナの元を去り、とうとう教団はもぬけの殻となってしまう。たったひとりとなってしまったシバ・プラーナはその島を出て旅人となり、またどこかの島で宗教活動をはじめる。
そして他の島で信徒が増え、自分に全幅の信頼を置きはじめたとき、また彼は豹変し、気が狂ったようなことを言いはじめ、あきれ果てた信徒はまた彼の元を去り、また教団はもぬけの殻となる。
ふたたびたったひとりとなってしまったシバ・プラーナはその島を出て旅人となり、またどこかの島で宗教活動をはじめる。 彼の生涯はその繰り返しだったという。
へぇー、そんなヘンな宗教があったのですか、と笑うと僧は言った。
シバ・プラーナは信ずることの怠慢と愚かさを身をもって説いたのです。彼は良いことも説いた。それは十分信徒たちの知恵として吸収された。だがその知恵を実践するのは私ではなく、自分自身であると、ちょうどトラの親が子を谷に突き落とすように信徒を突き落としたのです。(中略)
教えというものは消えることによって人々の血肉になるのですね。私もいつかシバ・プラーナのようになりたいが、それは思ったより大変むつかしいことなのです。(藤原新也 CATWALK「咲いては枯れ、枯れては咲く花のよう」からの転載)

吉本隆明を悼む

大学院生の頃、吉本隆明の著作には魅せられ、読みふけった時期があった。今も『吉本隆明全著作集」は、研究室の本棚に鎮座している。
「芥川龍之介の死」(『吉本隆明全著作集」7収録』)は、よく、社会階層・社会移動と文化の関係を説明する時に使わせてもらっている。
氏の生き方そして『丸山政男論』にあるように、優れた学問は、大学という制度の中にあるのではなく、大学外(野)にあるということを、身をもって示してくれたように思う。
今日(19日)の朝日新聞の朝刊に作家の高橋源一郎が、吉本隆明は「思想の『後ろ姿』を見せることのできる人だった」「彼の思想やことばや行動が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、どんな性格、どんな個人的な来歴や規律からやって来るのか、想像できるような気がした。どんな思想家も、結局は、ぼくたちの背後からけしかけるだけなのに、吉本さんだけは、ぼくたちの前で、ぼくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった」と述べている。同感である。
多くの影響を受けたものの一人として冥福を心よりお祈りしたい。