古い世代の役割

古い世代の新しい世代への対処の仕方として、藤原新也は興味ぶかい例を紹介している。しかし、このようにしなくても、「古新関係」、師弟関係は、新(弟)が古(師)を、楽々と超えているように思うが。

インドを旅して6年目、ある僧侶(私の著作『黄泉の犬』に出てくる私に僧衣をくれた人)から面白い話を聞いたことがある。
その僧侶は言った。ベンガル地方のガンジス川のデルタ地帯にあたかもデルタ地帯の小さな島々が洪水のたびに消え、またどこかに現れるように、消えてはまた現れる面白い宗教があったと。
その千人規模の小さな宗教サークルの僧正はシバ・プラーナと言う老人で、様々な生き方や人生の教えを説いた。しかし宗教サークルの信徒たちが、その僧正の教えに帰依し、全幅の信頼を置きはじめた時、突然豹変し、誰が聞いても理に合わないことを唱えはじめ、信徒を惑わせはじめるというのである。
例えば毎年デルタ地帯を襲うサイクロンによって、多くの子供たちが流された時、他の宗教サークルでは、インドの古来より伝わる代受苦の思想を説くことで、子供たちの死が決して無駄なものではないと説き、親たちの心を癒すのが常であったが、シバ・プラーナは子供たちは罪人(つみびと)であるから死んだのだと、親たちの気持ちを逆撫でするようなこと言った。(中略)
シバ・プラーナに全幅の信頼を寄せていた信徒たちは喧々諤々と様々な個人的な意見を述べはじめ、あるいは抗議し、ついには十人百人千人とシバ・プラーナの元を去り、とうとう教団はもぬけの殻となってしまう。たったひとりとなってしまったシバ・プラーナはその島を出て旅人となり、またどこかの島で宗教活動をはじめる。
そして他の島で信徒が増え、自分に全幅の信頼を置きはじめたとき、また彼は豹変し、気が狂ったようなことを言いはじめ、あきれ果てた信徒はまた彼の元を去り、また教団はもぬけの殻となる。
ふたたびたったひとりとなってしまったシバ・プラーナはその島を出て旅人となり、またどこかの島で宗教活動をはじめる。 彼の生涯はその繰り返しだったという。
へぇー、そんなヘンな宗教があったのですか、と笑うと僧は言った。
シバ・プラーナは信ずることの怠慢と愚かさを身をもって説いたのです。彼は良いことも説いた。それは十分信徒たちの知恵として吸収された。だがその知恵を実践するのは私ではなく、自分自身であると、ちょうどトラの親が子を谷に突き落とすように信徒を突き落としたのです。(中略)
教えというものは消えることによって人々の血肉になるのですね。私もいつかシバ・プラーナのようになりたいが、それは思ったより大変むつかしいことなのです。(藤原新也 CATWALK「咲いては枯れ、枯れては咲く花のよう」からの転載)