教育とはー昔と今は、感銘する点が逆

敬愛大学こども学科の1年生向けの授業(「教育原論1」)で、最初に、「教育とは」ということで、自由に書いてもらった。
その回答を、①知識等を「教え込む」こと、②子ども可能性を「引き出すこと」の2つで分類すると、前者が圧倒的に多かった。
① 「教え込む」に相当する回答――・(教育とは)人を育て、人に教える、・自分の持っている教養を次の世代に伝えていくこと、・人に知識を与え育てること、・成長とともに教えていくこと、・知識など自分の知っていることを人に教えること、・自分より豊かな知識を持つ人から教わり、自分より知識が乏しい人に教えること、・生きていく上で必要なことを学習すること・人に生活に必要なことを教え育てること、・一人前の大人にすること、・指導すること、・自分の持った知識を与えて次の世代に託すこと、・小学校は人間性を育てる場所、中高は学力を中心に教えるところ、・人に学業だけでなく精神的な面のことも教えること、師から持っている知識を後世に伝えることや人間らしく生きる術を学ばせること、・社会、集団で生きていく上で必要な知識を学ぶこと、・勉強はもちろん、社会に出て恥ずかしくないような人にさせる、・社会に出ていく為に必要な知識、コミュニケーション能力を身に付けること、・未来の日本、世界を支える人材を育てること、
② 「引き出す」に相当する回答――・学ぶことであり、知的好奇心を旺盛にするもの、・未来のある子ども達の将来の可能性を広げること、・ひとりひとりの可能性を引き出す、・才能を引き出すこと、子どもひとりひとりが持っている才能を引き出すこと 

授業では、「教育についての考え方には大きく2つある。ひとつは、教育は子どもの中にある無限の可能性を引き出し開花させることという考え方であり、もうひとつは、タブラ・ラサ(白紙)の子どもに人類の文化遺産を注入し一人前の大人に仕立て上げていくことが教育という考え方である」(武内清編『子どもと学校』学文社、2010)を、説明した。すると、学生から、次のような、コメントが返ってきた。
「私は教育は注入するだけだと思っていたが、『引き出す』という印象はなかったので、こんな考え方もあるものなんだなあと思いました」「無限の可能性を引き出す、ところがなんか良いなと思いました。そんな教師になりたいです」

私達が最初学部で教育社会学を学んだとき、教育には「引き出す」だけでなく「注入する」部分もあるのだと教えられ、それに感銘を受けたが、今の学生が感銘を受ける点は逆になっている。つまり、教育の「注入する」部分(それは当り前になっている)ではなく、「引き出す」部分(めったに行われない)に感動している。
これは、注入教育が一般化しているせいなのか、教育社会学的考え(教育=社会化)が一般化しているせいなのか?これは嘆かわしいことなのか、喜ばしいことなのか?