年末の夕日-稲毛海岸

日が沈むのを見に行きたくなる時がある。冬の年末の夕暮れは冷え込み寒く、散歩にはあまり適していないが、空気が澄んでいて、日の入りがくっきり見える。
今日(12月30日)も穏やかな日で、同じように夕日を見に来ている人が、稲毛海岸にも多く見られた。駐車場も年末年始は無料開放なのはうれしい。
ソフィーもこのところ海岸散歩続きでうれしそうに跳びはねていた。

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作田啓一(氏)のこと(その2)

このブログを思わぬ人が見てくださり、お便り下さることがある。
今回は、2016年3月18日のブログ(「作田啓一」(氏)のこと)を読んでくださり、作田啓一*に関して、「想い出」の文章を、送ってくださった方がいる。(*私は作田啓一(氏)を学問の師と仰ぐ気持ちを持っているが、著作を読んだことがあるだけで、教えを受けたわけでもないので、先生という敬称を付けることができない)

その方は、高名な社会学者の井上俊先生(大阪大学名誉教授)である。
井上俊先生は、京大時代の作田啓一に学び、作田啓一とも多くの本を書かれてい る方である。単独の著作も多くあるが、作田啓一の影響のあった若い頃書れた『死にがいの喪失』(筑摩書房)が一番印象に残っている。
井上俊先生の講演を、私は日本教育社会学会や日本社会学会の大会で聞かせていただいたことがあるが、面識はない。その高名な先生が、私のブログを読んで、わざわざお手紙を下さり、作田啓一に関する想い出の文章を送ってくださったのであるから、感激でである。
その内容は、作田啓一の映画好きや、私の知らなかった著作( 『現実界の探偵』白水社、2012年等)のこと、また学生への指導の様子も書かれていて、感激した。

まったく面識のない人が、共通の「知り合い」を媒介に、コミニケーションできるというのは、不思議でる。深く御礼申し上げるとともに、井上俊先生の文章を掲載させていただく。

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車のこと―その経済的格差

車には、いろいろな種類があって、選択肢がたくさんあり、どの車に乗るのか、それぞれの家族や個人の趣味や好みが出て、興味深い。
高級車を所有するということはステータスシンボルになるので、高い地位を示すために、高級車に乗る人もいるであろう。また誰でも趣味にはお金をかけるので、車が趣味の人の車にかける経費はかなりのものになるであろう。
私や家人は、車は趣味でもステイタスでもないので、車にあまりお金をかけることはしない。日常生活に便利な車を選ぶことになる。それで値段の高い新車より、安い中古車またを購入することが多い。
ただ、中古車を買うことはそれほど経済的ではないような気もする。新車でも中古車でも、1年当たりにかかる費用はあまり差がない。たとえば、車体価格が300万円の新車を10年乗れば1年分の車体価格は30万円、5年経過した100万円の中古車を買って5年乗ると1年分の車体価格は25万円で、1年分で見るとあまり新車と中古車で変わらない.ガソリン代は新車の方が、燃費がよく安い。結局経費は、新車も中古車も変わらない。
「金持ち」は、初期費用があり新車を購入することができるが、「貧乏人」は初期費用がなく中古車しか買えずそれに乗る。毎年ほぼ同じ費用を払いながら、金持ちは快適なカーライフを送り、貧乏人はみじめなカーライフを送る。(うちは後者)
このような人の社会的格差は、カーライフだけでなく、他の分野の生活にもみられるのではないか。
たとえば、住む家でも、5000万円のマンションに住み、5年後に同じ値段で売った人と、500万円の団地に住み5年後に同じ値段で売った人では、1年間に住宅にかけた経費はあまり変わらないのに、前者は便利な場所と贅沢な住居に住み、後者は不便な場所とつつましやかな部屋に暮らしている。
このように、社会的格差は、その人や家族の財産の有無(初期費用を払えるかどうか)の差が大きいように思う。