教育政策の社会学

日本の教育の世界は、国の政策で決まったことが全国一律に適用されるので、影響力は大きいと思う。しかし日本の教育政策がどのようなメカニズムで決まるのかという研究は少ないのではないか。
文部科学省の中に、中教審やその下部の専門委員会はじめ、領域ごとのや教科ごとの委員会や有識者会議があり、文部科学省の大臣、各部署や局長、審議官、課長、係長、視学官、教科調査官などさまざまな役職があり、何処が実質的な権限をもち、実質的なことはどのようなメカニズムで決まるのか知りたいところである。
「教科領域の壁は厚く、教科の専門家以外は口を挟めない。特に英語教育はそう」「有識者にいろいろ議論させても、最初に文部科学省の事務方が作った案に落ち着く」「中教審の親委員会に案が挙がってくる時はほぼ決定されている」「教科調査官の権限は絶大で、教育現場で神様のような存在、しかし学習指導要領の新しい方向を、教科調査官が正しく理解しているわけではない」等々。-いろいろな憶測を聞く機会はあるが、それらのどれが正しいのか、全くわからない(どれがきちんと実証的なデータで検証されているのか、私がたまたまこの分野に疎いのかもしれないが、わからない)。
もうすぐ、新しい学習指導要領が発表され、日本の教育の方向は大きく転換されると言われているが、その内容は誰が提案し、どのようなメカニズムで決定されたのか、知りたいところである。

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大学教育の意味

非常勤先の大学(神田外語大学)で教職科目の「教育社会学」を教えていて、「あれ!」と思うようなことがあった。
かって私が教えていた上智大学の教育学科のようなところでは、「教育社会学」は教職科目ではないので、教員採用試験に出るとか教師になって役立つとかということを意識しなくてよかったが、教員養成の為にある科目がある大学の場合、そのような実利的な効用を意識せざるを得ない。学生もそれを期待して受講しているのだし、実利的な目標を設定することは、そんなに悪いことではない。
そこでは私の著書の『学生文化・生徒文化の社会学』(ハーベスト社、2014年)をテキストに学生に発表をしてもらっているが、ここ2回はたまたま大学や大学生文化を扱う章(1章~4章で、発表内容と議論が、大学生活の実態や大学教育の意味といった、教職とは関係のないこととなった。
発表の後の少人数の討論の後の感想を聞いていると、「大学とはどのような場なのかいろいろ考えさせられた」「大学は何をしようが自由な場で、その時間を有効に使いたい」「将来の安定確保の為に教員免許を取っているが、それでいいのか迷うようになった」「語学はあくまで、何かを学ぶための手段であり、それを使って何をしようかいろいろ考えている」など、実利的なキャリヤ(将来の職業)の為でない、大学や学生の本来のあり方への模索や理解がなされていることを知り、教える側として大変うれしく感じた。
このような実利でない大学教育の意味を、私もしばらく忘れていたように思う。

大学の実学志向、産学共同について

現在大学の研究や教育も実学志向が濃厚で、大学以外の実社会との連携が盛んに提唱されている。
大学教員も実社会の経験者が重宝がられ、現場経験が評価され大学教師として採用されることが多い。学生も実経験のある教員の授業を有難がり、また企業や教育現場でのインターンシップやボランティア活動かが、大学時代に一番役立ったと感想を述べることが多い。
今の大学では、学生の就職実績を上げようとキャリア教育に力が注がれている。産学共同という言葉は手放しで称賛される。
このことは、1960年末の「大学紛争(闘争)」を経験した世代からみると隔世の感がある。その時代は、公害問題で工学系が、そして薬害問題で医学や薬学の分野が、そして人文系でも大学の研究や位置が、社会の中で「加害者」の役割を果たしていないかが厳しく問われた。大学の産業界や政府との連携はタブーであった。
それに対して今は、大学の実学志向や産学協同が手放しに称賛される時代になっている。しかし現実をリアルに感じるということは、必ずしも現場との連携や経験が多ければいいというわけではない。

「産学共同」は、下記の新聞記事にある軍事研究のみならず、人文系の分野でも批判的精神を失い、学問の衰退を押し進めることにならないかと危惧される(ただこのことは、現実から遊離した論議にふければいいということを意味しているわけではない。)

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