教育が困難

教育が困難な学校で、先生たちは、日夜苦労している。その実態を知ると、これは、何とかできないのかと思う。
教師になり手がなくなってしまう。
教員免許を大学院レベルにしたり、学校カウンセラーを配置することで、解決できる問題ではないように思う。
 次の文章は、都立の進路多様校(高校)に勤める新任(2年目)の教師の報告である。

<1年の1学期で進級の見込みが立たない生徒がおおよそ320人中50名ほど出てしまいました。喫煙や万引きなども4月の段階で出ておりこれからどうなってしまうのか心配です。授業を聞けない、じっとしていられない、ノートを取れない、の3拍子そろった子(がいます)
生徒の進路は、3割が大学、3割が専門、2~3割が就職、残りは進路未定という感じです。ですが大学はほとんどが指定校推薦やAOのため、半分近くは卒業できないらしく学習意欲や進路の希望などを高校生活でいかに引き出すかが課題ではないかと感じています。
勉強を苦手とする子がほとんどなので、むやみに授業のレベルを上げるわけにもいかず、なにか方法はないか悩んだりもしています。
生徒が興味を持ってもらえるよういろいろと試行錯誤しながらの毎日です。授業にアニメをとりいれてみたり、マンガを使用したり、発問を多くして生徒を授業に引き込めるようにしたり、授業を楽しいと感じてくれなければすぐ聞いてくれなくなるので、日々苦闘しています。ちなみに授業中の生徒の様子ですが、おしゃべり、ケータイ、立ち歩き、化粧、寝るなど結構ひどいです。>

教育現場の参観

敬愛大学こども学科の1年生のゼミのカリキュラムに、「半日学校参観」がある。これは、ゼミ単位で小学校を半日訪問し、いろいろ教育現場のことを学んでくるというものである。これが、いつも9月に行われる。学生には、きちんとした服装をして、礼儀正しい行動をするように言い聞かせて行くが、引率のゼミ教員は、学生が期待通り行動してくれるのか、気が気でない。
今年のT先生とK先生の引率記を、一部、ご了解を得て転載させていただく。(私も昨年経験したが、今年は1年のゼミを担当していないので、今年は参観なし)

<本日、午前中、G小学校にゼミ生7名と行ってまいりました。女性校長がふんわりとした人当たりの良い方で、学校の雰囲気も落ち着いていて、なごやかなよい学校でした。予定通り、学校の概要、業間参観、授業参観、校長講話と滞りなくすみました。参加学生たちも白シャツ、黒ズボン、同スカート、お化粧は地味目でなかなか立派な学生ぶりでした。説明を受けている間も私語もなく、終始真面目に緊張していました。校長講和のあと、質問も3名からでて、まあまあだったと言えるでしょうか。>(T先生)

<ゼミ生9名全員参加しました。Y駅から徒歩20分弱でした。今年の学生は身だしなみも良く歩き方もデレデレせず、9時開始の12、3分前に学校に到着。教頭先生の案内で校長室へ入室。全員、氷の入った冷たいお茶を頂きながら、教頭先生の学校概要の説明を受けました。校長先生から白紙が配布され、参観終わるまでに、なぜ小学校教員になりたいと思ったか、授業参観して子ども達の良いところをできるだけ沢山見つけて箇条書きで書いて下さいという宿題が出されました。
そのあと1年生から6年生の授業を自由に参観、業間休みに入りました。男子学生が5年生とリレーの練習をしていました。(運動会が9月29日とのこと)5年生ともなるとかなり速いです。終わってから学生に手を抜いたのか聞いたところ、全速力だったと言っていました。
 業間休みのあとは、校長先生の講話がありました。他の校長先生が言わないことを話すのでメモを取らないようにと、釘さしてからの講話でした。学生にとってためになる楽しいお話しでした。9名中5名が質問していました。ゼミの時は無口で孤立気味の男子学生も質問していました。最後に学生代表としてT君に謝辞を述べてもらいました。準備してきたメモ帳を見ながらの謝辞でしたがアドリブも入れてなかなか良かったです。>(K先生)

 敬愛の学生も「なかなか」だと思う。半日だけだが、学生は教育現場で、多くのことを学んでいる。

懇親会での話題

いつも不思議に思うのは、インフォーマルな会話や懇親会では、話題はどのようにして決まるのかということである。 フォーマルな会や会議では、議題というものがあり、そのことを話しあうという合意があらかじめなされているので、そこから外れることはめったにない。
それに対して、インフォーマルな会話や懇親会の話題は、誰かが用意しているわけではなく、その場で何となく決まるように思われる。そこにどのような力学が働き、話題が決定されるのか、いつか探ってみたい。偶然以外の何物でもないかも知れない。

先日参加した懇親会では、「道徳と宗教の関係及び宗教」のことが終始話題になった。
私にとって、道徳も宗教も苦手な話題なので、終始聞き手に回り、ひたすら料理を味わい、ワインを飲み、話を聞かせてもらった。
「『日蓮』という優れた小説がある。これは、法然を否定する日蓮と念仏信仰の源空丸との人間愛がテーマ。佐渡まで訪ねてきた源空丸の最期の時、日蓮は「南無阿弥陀仏」と唱える。宗派を超えたところに日蓮の生の人間としての本質を見ることができる」
こんな高度なことが、飲みながらでも、偶然 話題になる。

卓球&趣味

今日は、1か月ぶりくらいに「卓球愛好会」の練習に参加した。別の地区のメンバーも加わって、小学校の体育館で1時間の練習と1時間の練習試合。男は私の歳ないしそれ以上の人が多いが、皆元気。女性も週に4~5日卓球をやっているという卓球好きの人が多い。
休憩時間も、卓球のことで話が盛り上がっている。
知り合いが絵を書いていて、その絵の展覧会を近くで開いているからと、その写真をいただいた。皆、卓球の他、いろいろ趣味があり、充実したシニアライフを送っているようだ。
閉め切った体育館の中は暑く、私は1時間の練習でダウン。学校の飼育小屋のウサギの写真を撮り、早々に帰る。 

本の価値

我々研究者にとって本は命という気持ちがあり、食べるものも食べなくても本を買ったという経験は、研究者には誰にでもあるのではないだろうか。確か、夏目漱石もロンドンでの経験としてそのようなことを書いていたように思う(あるいは『道草』の中の文章)。
渡部昇一が名著『知的生活の方法』(講談社現代新書)の中で、本を手元に置くことが、知的生活を送る為にいかに重要かということを書いている(図書館に本を借りに行くたびに思考が中断され、手元の本がないと集中的思考が重要な知的生活を送れない)。
我々世代、あるいは少し後の世代までは、研究者は、上記のように考え、本をせっせと購入してきた。

しかし、今はインターネットの時代に入り、事情は変わって来ている。インターネット上でさまざまな情報が得られるようになっているし、多くの本や雑誌や学会誌はインターネットで読めるようになっている。手元の本を置く必要が段々なくなってきているのである。
私は助手の頃、日本社会学会の学会誌『社会学評論』の1号~80号までを、本郷の古本屋の広告に安く出ているのを、先輩の高橋均さんが教えてくれてた。値段は80冊で15万円(何冊かに製本されていた)。古本屋は「その2倍以上の値段をつけるつもりが間違えてしまった」といい、売り渋ったが、「広告に出してあるのだから」と言って、その値段で売ってもらった。その後社会学会に入り、その後の巻を全部揃えたが、今は、その社会学評論も、ネット上で無料で読めるようになっている。

研究者が定年退職した時、本の置き場がなく困ることになる。「本は命」、「本がなくては知的生活を送れない」という気持ちがあるし、それぞれの本には、食費を削ってでも購入したという思いや、その時々に読んだ思い出がある。
せめてこの本をどこかの図書館で受け入れてくれないかと探すが、それはほとんど拒否される(1冊の本を、大学の図書館に置くのは、その登録に3000円くらいうの費用がかかると、昔聞いたことがある。スペースの関係だけでなく、費用の面からも、図書館に安易に本は置けない)。次に古本屋に聞いてみると、選別して、そのうちの何冊かは、わずかなお金で引き取ってくれる。
(ブックオフでは、本の新しさ、綺麗さだけで選別される。店の本棚にある同じ本でも、拒否されたことがある)。このように、本を処分しようとして、自分の大切にしてきたものが、社会的には何の価値もないと烙印され、いたく自尊心を傷つけられる。

アマゾンでは、古本を1円で売っていることがよくある。時々これを利用する。郵送料が250円かかるので251円という価格だが、これで割が合うのであろうか。
小倉 千加子 (著) 『結婚の条件 』(朝日新聞社) も今1円で購入できる。

一方、たまに、古本で定価より高い本を見つけることがある。その場合は、かえって嬉しくなる。最近、ネットで 見た本では、
・天野 郁夫 (編) 『学歴主義の社会史―丹波篠山にみる近代教育と生活世界』 (単行本) 中古品 34,293円(放送大学の院生に読むようにすすめたが、値段が高い)
・麻生武「身ぶりからことばへ―赤ちゃんにみる私たちの起源 (子どものこころ) 中古品 4,555円、12619円
・細谷 恒夫 (編集)『教師の社会的地位 (1956年)』7000円、95750円(この本は持っていて、昔3万円くらいの値が付いていた)
・原田 彰 (編さん), 望月 重信 (編さん) 『子ども社会学への招待』 中古 5737円 (これは、新本で出たばかりだが、古本ではこのような値段が付いている)