苅谷剛彦氏の紫綬褒章受章を喜ぶ

教育社会学は、教育学と社会学の中間に位置する新興の学問分野で、伝統のある教育学からも社会学からも低く位置づけられ、教育社会学専攻の学生や研究者は肩身の狭い思いをしてきた。それは現在も続いている。大学で「教育社会学」の科目が開設されているところはそれほど多くない。現在教員免許の科目に「教育社会学」は存在しない。関連したものとして「教育に関する社会的、制度的又は経営的事項」の対応授業科目の10のうちの1つに例示されているに過ぎない。

そのような中で、教育社会学の研究者の一人である苅谷剛彦氏(オックスフォード大学教授)が、この度紫綬褒章を受賞したことは、本人だけでなく教育社会学という分野にとってもとても喜ばしいことだと思う。心よりお祝い申し上げる(下記に、それを報じる新聞記事を一部転載)

<様々な分野で功績のあった人をたたえる2023年春の褒章の受章者が決まった。/ 学術研究や芸術文化への功労者が対象の紫綬褒章は21人/■紫綬褒章受章者 教育通して日本を理解 教育社会学者・苅谷剛彦さん(67)/ 実証的な教育社会学の議論を長年主導してきた。「メジャーでない研究分野での受章」を喜ぶ。1990年代後半から2000年代にかけての「学力低下」や「ゆとり教育」をめぐる論戦は記憶に新しい。教育改革が学力や意欲の格差をかえって広げ、不平等を拡大させる問題を指摘した。高校の頃に社会学の本に触れ、研究者にひかれた。教育社会学を学び、米国で博士号を取得。米国では実証データに基づく研究が教育政策を左右していた。「論理的に考えて表現する。日本研究を英語で論文にする。自分の研究が海外でどういう意味を持つのかといまだに考え続けている」 東京大学教授から英オックスフォード大学教授に転じて間もなく15年になる。「明治以降の日本は教育を通じて近代化を進めた。教育こそ日本社会を深く理解する不可欠のレンズ」だと語る。「AI(人工知能)が普及すれば教育も大きく変わる。変化を定点観測する仕組みづくりが急務」と今後を見据える。>(朝日新聞 4月28日朝刊)

千葉市動物公園にツツジを見に行く

今年は例年より少し早く、ツツジの季節が訪れている。うちの庭のヤマツツジは2週間前に咲きもう終わっているが、近所の家のツツジが今満開。近所の新しい家は、垣根をつくらず、庭がオープンになっているので、花や植木を散歩しながらみることができる。

今日(4月23日)は、天気もよく、どこかにツツジを見に行きたいと思ったが、午前中に2時間ほど卓球をしてしまったので時間がなくなり、近場で我慢することにした。向かったのは、自転車で15分のところにある千葉市動物公園。動物が目当てではなく、公園内に咲いているツツジが目当てで出かけた。動物公園内や駐車場には、いろいろな色のツツジがかなり、満開で咲いていた。ついでに、ライオンやハイエナ、シマウマ、孔雀、ダチョウなどの動物も見た。

千葉市動物公園は、入園料(大人700円、中学生以下無料)や駐車料金(700円)がかかるので、そう気軽に行けないが、千葉市在住の高齢者(65歳以上)は入場無料であるし、緑や花が多く、自転車で行き、公園内を散歩するには、いい場所だと思った。

筑波に牡丹(ぼたん)の花を見に行く

今日は、牡丹(ぼたん)の花を見に「つくば牡丹園」行ってきた(千葉から高速道路を使って約1時間10分ほど)。私が牡丹や芍薬の花をたくさん見るのは初めて。

日本で、美しい女性の容姿や立ち居振る舞いが、「立てば芍薬、座れば牡丹…」と形容されてきた。その例えの通り、なかなか日本的で控えめで、上品な花という印象だった。バラと同じように花は大輪でゴージャスな作りだが、バラのような自己主張は感じられず、控えめな印象である。開花して3日もすると萎れてしまうという(ただ、牡丹にもいろいろな種類があり、また牡丹と芍薬の花の違いがよくわからない。牡丹は芍薬に接ぎ木して殖え、芍薬は球根で殖えるという)。帰り際に、芍薬の苗木が数本入っているプランタンを購入した。その育て方を読んだら、かなり難易度が高いことがわかり、これはかなり覚悟して育てなければと思った。

*Peony Garden Tokyo(つくば牡丹園)は1989年の開園当初から無農薬・酵素農法にこだわった土職人(園長・関浩一)が、800種にものぼる牡丹・シャクヤクをはじめとした花々を咲かせている関東随一の庭園です。春から初夏にかけて約5万株の牡丹とシャクヤクが咲き誇る庭園です(https://jp.peonygardentokyo.com/)

昔の大学研究室の教師―学生関係

昔ある同僚の先生のお宅に電話をしたところ、奥様が出られて、「夫は今いない。私は関係がないので、大学で話してほしい」と、不機嫌な声で言われたことがある。そのようなケースは稀で、大抵は同僚の奥様が私のことをご存じで、丁寧な対応をして下さる。私が学生や院生の時、指導教授の先生のお宅に電話した時も、同様の丁寧な応対を受けたと思う。私たちの学生院生の頃は、少人数ということもあったが、研究室の先生(教授、助教授)が、ご自宅に招いて下さることがあり、また正月には年始の挨拶に伺うこともあり、先生の奥様の手料理をいただき、奥様は我々学生院生のことを気遣って下さっていただいていること感じた。

このような、大学における教員と学生院生との関係は、今は様変わりしていると思う。大学教員が、自分の私生活を学生院生に示すこともないのではないか。教師―学生院生関係は、公的な教える―教わるという関係であり、そこに私的な関係が入る必要や余地はないと考えられていると思う。現代の教師-学生関係はそれでいいと思うが、昔の先生の奥様や家族まで巻き込んだ研究室やゼミの教師―学生関係にもよさはあった、そこから学ぶことも多かったということを書いておきたい。教育は全人教育の面がある。

大学時代の恩師のひとりである松原治郎先生の奥様が、2月19日に90歳でご逝去されたというお知らせを息子さんからいただいた。昔松原先生の奥様からもいろいろお気遣いやお世話いただいたことを思い出した。ご冥福を心からお祈りする。

非対面(孤独)の効用

新型コロナの感染の終焉が言われ、かっての日常のように、人と対面の活動が戻ってきている。学校のクラブ・部活動でもマスクなしの対面での活動が復活して、大学の授業でも、遠隔授業減り対面授業に戻りつつある。そのような中で、対面活動ができる日常が戻ってきたことへの喜びの声が報道されることが多い。しかし、人との対面活動の減少、自分に向きあう時間の増加という、新型コロナ時代のよさも忘れてはならないであろう。

高島鈴は、「今と違う社会のあり方を模索する営み」を「革命」と称し、「生産性」重視の社会を問題にしている。そこでは、人々は学校や会社に通い、対面行動を通じて生産性をあげるようと必死に学び、働いている。家に引きこもって何も生産していない人は、「穀潰し」として糾弾される。それに対して(『布団な中から蜂起せよ』という本を書いた)高島は、人を「生産性」で測って使い潰そうとする仕組みが蔓延している世の中で、「ただ存在して生き延びることは、常に革命的なのです」と述べている。(朝日新聞、2,023年4月12日、朝刊)

哲学者の柄谷行人は、大作『力と交換様式』(岩波書店2022)の書いた心境に関して、「コロナの少し前から、あまり外に行かないで、家の周りを歩くだけの日常を3年以上送りながらものを書いていた。世の中から離れてしまった感じが、まだ続いているんです」と、説明している(朝日新聞、2,023年4月12日、朝刊)。

村上春樹は、6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』(新潮社,2023.4)を書いた理由として、「新型コロナウイルスの影響で外にあまり出なくて、自分の内面と向き合うような傾向が強くなったんじゃないかな」と回顧している(朝日新聞、2,023年4月13日朝刊)

哲学にしろ、文学にしろ、歴史に残る優れたものは、浅い人との関係や対話からではなく、深い思索や自分との対話から生まれてくるように思う。引きこもっている人、退職して孤独に過ごしている高齢者は、その利点を生かすべきだと思う。