初冬の海と鳥

冬になると家の庭の餌箱にパンくずやミカンをおいておくと、スズメやメジロやムクドリがよく来て餌を食べてくれて楽しめたが、一匹の地域猫(名前はジョバンニ)がうちの庭(や家)に来るようになり、庭の餌箱に来る鳥を捕まえるようになった。それで、鳥に餌はやれなくなり、近くの海岸に餌を持って出かけるようになった。

昨日(15日)は、検見川浜は、日差しは暖かく風もなく、多くの鳩が餌を食べに来てくれた。カモメや雀も少し少数ながら混ざっていた。桟橋では、老人たちがのんびり釣り糸を垂れ(小魚とイカが釣れていた)、沖合には、魚の群れが居るのか、多くの鳥が群がっていた。

映画『ドライブ・マイ・カー』を観る

映画『ドライブ・マイ・カー』(Drive My Car)をPCで観た。3時間と長い映画で、途中3~4回中断して、3日くらいかけて観た。映像はなかなか迫力があり、ドライブで景色も楽しめたが、村上春樹の世界とは別物のように感じた。その内容や感想はWEBで下記の次のように紹介されている。

『ドライブ・マイ・カー』(Drive My Car)は、濱口竜介監督による2021年8月20日公開の日本映画。村上春樹の同名小説「ドライブ・マイ・カー」の映画化作品。主演は西島秀俊。第74回カンヌ国際映画祭では日本映画初となる脚本賞を含む計3部門を受賞したほか、第94回アカデミー賞では作品賞・脚色賞を含む計4部門にノミネートされ国際長編映画賞を受賞。

「ドライブ・マイ・カー鑑賞してきました。今まで観た村上春樹映像化作品で1番好きだし村上春樹らしさが損なわれてないしホントにいい映画だった!」「村上春樹の物語をそのまま映像に転写したような、というのが率直な感想。観終わった直後はピンと来なかったのに、家福の独白を反芻する自分に気づく。僕たちって正しく傷つくべきだったよな」「愛する人を失う絶望から演劇を通しての希望を描いている今作。それは悲しみからの再生の物語」「この映画は、40も半ばを過ぎ人生がくたびれてきた人や若くして相当な災難に見舞われた人でないと心に沁みてこない映画なのかもしれない」「ユナ役のパク・ユリムさんはステキでしたね。手話も美しい」「濱口監督の作品は基本的に戯曲研究がベースになっている部分があるように思う。それが色々と面倒臭い印象を醸し出しちゃってるのかもしれない…」「話題になっていて自分の中であまりにも期待値を上げすぎていたせいか何が良かったのか私には分からなかった。棒読みのセリフも気になるしラストのみさきはどうして家福さんの車にしかも犬を乗せて運転してたのか?それも韓国に行ってたし、どう読み取ったらいいのか難しかった」「わしには分からん、アホじゃけぇ。文学っぽくて、序盤の雰囲気から最速で置いてけぼり。賞をとってるからと言って分かったフリはしたくない」

村上春樹に関する評論も書いている内田樹が、映画「ドライブ・カー」に関して、コメントを書いている(2022年12月29日)。一部転載しておく。

「すぐれたアイディアだと思ったのは、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を多言語(日本語、韓国語、中国語、手話など)で演じる舞台の稽古を軸に物語が進むという設定だった。/ 多言語演劇というのも巧妙な設定だと思った。日本語なら私たちには意味がわかる。だからつい意味を追ってしまう。それだけで「芝居を見た気」になる。でも、知らない言語で演じられると言葉の意味がわからない。私たちは俳優たちの微細な表情の変化や息づかいや声の響きに集中する他ない。それはストーリーを追うこととは別の種類の集中力を観客に求める。/そのせいで、観客には物語の進行を高みから見物するという横着な構えが許されない。観客ひとりひとりが固有の仕方での「参与」を求められる。」

若い人の自然観

私の冊子『教育、大学、文学、ドラマ、日常』(2022.9)のⅨ章は「花紀行」である。それを読んだ学生の何人かがその感想を寄せてくれた。その一部を紹介する。

A Ⅸ章を読んで、私たちの人生には必ず自然が存在していると実感した。自然は人間視点から見ると当たり前に存在しているが、それを当たり前と思わず自然に関心を持ち大切にすることが大切であると思った。なので今までよりも草木や花への関心を持ち色々見に行きたいと思う。冊子を読んで私も八千代京成バラ園入ってことがあり、記載されている通り日本とは思えない雰囲気をバラが演出していた事を思い出し、もう一度違う季節に訪れたいと思った。また私が1度も行ったことないためぜひ行ってみたいと思ったのは、3つあり1つめは千葉市にある花の美術館である。大学から近いところにあり、学校帰りでも行けるのでそこで季節の花を楽しみたいと思った。2つめは日光の紅葉である。しかし今の時期ではもう散ってしまっているので来年はぜひ肉眼で見たいと思う。3つめは花見川の桜である。水色の空と桜のピンクの色の対比を川の流れの音と一緒に楽しみたいと思った。桜はすぐに散ってしまって悲儚い花だが、だからこそ桜が主役となっている時は美しいと思う。以上の他にも時間がある今のうちに多くの自然と親しんで行きたいと思う。

B 私は花や自然が好きで長期休みは少し朝早く起きて散歩がてら花などを探すことがあります。しかし、今は学校や課題でそのような時間が取れず自然と触れ合えていません。そのため、この章を読んでとても花を見に行きたくなりました。幼い頃は花は綺麗だけれどわざわざ見にいくということはしませんでしたが、最近は無性に花や自然の中に行きたいと思うようになりました。人工的なものしか触れ合えない今の状況に日常の危うさが出ているのかは分かりませんが、今学期が終わり春休みになったら梅や桜、自然を見にいこうと考えました。

C 今回、資料を読んだ中で「花紀行」に興味を持った。理由としては、私のアルバイト先で様々な花を取り扱っており、わが家でガーデニングをすることもあるからだ。江藤淳は「自然に関心がない人は人工的なものに侵食され、自然を奪われ、人間に集中されることを余儀なくされている。」とある。このように、自然に関心を持つべきなのは、大人だけではなく子ども同じである。自然から学べることはたくさんあり、木の枝一本からでも様々な遊びを考え、気づきを基に創造力や発想力などの非認知能力を高めることができる。また、教師は自然とかかわることで新たな教材を見つけることができるかもしれない。武内先生のように多くの場所に行くことで、その地域の特色を知ることができてよいのではないかと思った。

若い人の韓国ドラマ観

「冬のソナタ」から始まった韓国ドラマブームは、その後断絶も繰り返しながらも、歴史ものを中心に比較的高齢者層に人気があると思う。若い人はどうなのであろうか。若い人は高齢者のように暇でなく、ドラマを落ち着いて観ている時間がなく、それほど話題になることはないのではないか。

私の冊子『教育、大学、文学、ドラマ、日常』(2022.9)のⅧ章は「韓国ドラマ、映画」であるが、それを読んだ学生の何人かがその感想を寄せてくれた。その一部を紹介する。

若い世代が韓国ドラマにそれほど関心を寄せていない様子が伺われるが、「韓国ドラマ好きの親の影響で見るようになった」「K-ポップが好きで、その歌手が出演しているので見るようになった、バックの音楽(OST)がいい」などの感想が見られる。さらに「友人や冊子に薦められて韓国ドラマを観てその面白さを知った。もっと観てみたい」という感想も寄せられている。政治的にはギクシャクしている日韓関係の中で、日本の若い人が隣の韓国のドラマを観て、韓国の文化や価値観を理解することは、今後の日韓関係にとっていいことだと思う(以下、学生の感想の一部抜粋)

A 私は元々ドラマを観ることが少し苦手だ。それは嫌いとかではなく、テレビの前でじっと座ることや合間合間にあるCMによって集中が途切れるといった理由による。だが最近友達に勧められ、ネットフリックスで一緒に韓国ドラマを観ることになった。それは、日本のドラマでは感じることのできないものを韓国ドラマで感じた。そのドラマとは「その年、私たちは」。「なにが起きたか」ではなく「その時どう感じたか」に焦点を当てていて、ドキュメンタリーを撮影する内容。演者さんが自然な演技を見せているから、私は目を逸らさずドラマに釘付けで、「観なくちゃ」ではなく「もっと観たい」という気持ちが大きくなった。韓国ドラマは演出・演技・セリフ・カメラワークがとにかく絶妙でそして繊細。そして全ての人物に共感できる部分があり、それが切なくもあり、もどかしくもあり、温かくもあり。色々な感情を一気に掻き立てるものがある。また、恋愛に関しても、日本のドラマとは違うものも沢山ある。だからこそ、韓国ドラマはどこか惹きつけられるものがあり、引き込まれるものだということがよくわかる。

 B  私は韓国の文化にとても興味があり、よくKPOPアイドルのライブに行ったり、韓国語の勉強をしたりします。しかし、韓流ドラマを見たことがあまりありません。韓国のドラマは話数が多く、一話の時間も長いので、途中でリタイアしてしまいがちでした。この中では唯一、「マイ・ディア・ミスター 〜私のおじさん〜」のみ完走することができました。そのくらい惹きつけられるドラマだったと思います。初めはあまりにも暗すぎて心配になるレベルでしたが、徐々に心温まるストーリーになっていきました。特におじさんたちにとても癒されました。ジアン役の「IU」は、KPOP歌手で「国民の妹」と親しみを込めて呼ばれるほど愛らしいイメージなのですが、笑顔がなく冷たい感じの役もこなせていて、その演技力に驚きました。また、ドンフンとジアンだけでなく他の登場人物にもスポットライトがあたり、面白かったです。最終話はめちゃくちゃに泣けましたし、私にとってもまた見たいと思えるドラマです。そして、映画「私の頭の中の消しゴム」はずっと気になっていたので、冬休みに見てみようと思います。「梨泰院クラス」のOSTですが、KPOPはメロディアスでおしゃれな曲が多いですし、歌唱力もすごいので、つい聴き入ってしまいます。梨泰院クラスのOSTの中なら、6番のVERIVERYという男子グループの「With Us」という曲がとても好きです。サビの「더는 혼자가 아냐」(もう1人じゃないよ)という歌詞に何度も支えられました。他のOSTもバラード系が多く、よかったです。

 C  私は趣味が韓国ドラマを観ることで母の影響で小さい頃から好きだからです。私は、冊子の中の「梨泰院クラス」「愛の不時着」「彼女は綺麗だった」「屋根裏のプリンス」「パラサイト‐半地下の家族」「六本木クラス」を見たことがありました。韓国ドラマの中には様々な人生観が学べて、実際に経験したように心に染み込んでいくストーリーのドラマが多いように感じて、なかなか沼から抜け出せないです。想像以上にありえない展開が多い中に、現実でも実際に起こり得そうなリアルな内容があったり、謎や伏線が張られていることが多いため緊張感があり、気がついたらドラマの世界に引き込まれてしまいます。韓国は隣国であるため、米国のドラマに比べると見やすさを感じますが、たくさん見ていくと、日本との違いや共通点を数多く見いだすことができます。文化の違いであったり、学校の様子も全く違うので、韓国の人がどのような意識を持って生活をしているのか考えるきっかけになります。特に、韓国のドラマからは仕事に対する思いや、家族に対する思いが強いように感じます。最後に、冊子の中にはまだ見たことのないドラマが沢山あったので、ぜひ観てみたいと思いました。

子どもの思いやり行動形成の理論について

子どもが相手への思いやり(自己中心的な欲求を抑えた利他的心情)をもつようになるメカニズムに関しては、作田啓一の『価値の社会学』(岩波書店、1972)のどこかに書かれていたように思う。下記の記述が該当するかもしれない。

「子供がある程度成長すると、親はしつけを始める.子供のわがままは、かってのように何でも許されるというわけにはゆかなくなり、しばしば禁止される。だが子供は既に親に愛着しており、また独立して生活しえない無力な存在であるので、親から逃げ去ることができない。こうして自己中心的な欲求の充足と親の愛や保護をつなぎとめておきたいという欲求とが同時に成立しえない葛藤状況が出現する。この葛藤を解決する方法はただ1つしかない。それは,みずからを親と同一化し、彼らが望ましいものとしている価値を自分の価値することである。この取入れが成功して価値が内面化し始めるにつれ,しだいに超自我が形成されていくのである。」(同103ページ)。

さらに下記のような文献のあることをI氏が教えてくれた。それは子どもに先天的に備わっている素質なのかもしれない。

 「人間には、困っている人にお金や食べ物を分け与えたり、困っている人を慰めたりと、他人を助けようとする性質がある。このような利他的な行動は、親から道徳的なルールを教わったり、人に親切にすることで報酬を得たりと、文化的な背景があると思われがちだ。さらに、利他的な行動は人間特有のもので、他の動物は利己的な目的だけで生きていて、利他主義者になる方法を教えてくれる親もいないから、このような行動をとらないと考える人も少なくない。/ しかし、いくつかの科学的知見から、人間の利他主義はこれまで考えられていたよりも根深いと示唆されている。具体的には、私と同僚は、人間の子どもは、文化的ルールを教わるなどの社会的経験がその成長に大きく影響する前の、非常に幼い頃から利他的な行動をとっていることを示す研究を進めている。幼い子どもを研究することで、私たちがどのような利他的行動を早い段階でとれるかを明らかにし、その傾向が文化的ルールや道徳教育と結びついてどのように発達していくかを追跡できる。こうして、哲学者トマス・ホッブスとジャン・ジャック・ルソーの時代から議論されてきた疑問に対する答えを得られる。利他主義とは、(ホッブスが信じていたように)人間の利己的な性質を制御するために採用された社会のルールの結果なのか?それとも、ルソーが考えていたように、人間には他人を思いやる自然な傾向があるのか?/  幼い頃の子どもたちは、人がなぜそうするのか、どのようにしてそうするのかを知りたがり、驚くほど知的に物事を観察する。例えば、1歳の子どもは、誰かがユニークな道具を使ったり、装置のボタンを押したりして、驚くべき効果を生み出すのを見ると、その人が意図的にやったことと偶然のことを区別できる。そして、自分がその道具を使ったり、ボタンを押したりするとき、その人がやったことをすべて真似るのではなく、その人が意図したことだけを真似る。子どもは行動をコピーするのではなく、意図を読み取る。この「意図を読み取る力」が役に立つ。子どもは他人を観察して学ぶことで、役に立つことと役に立たないことを区別し、他人の行動のうち真似する価値のある部分だけを真似するようになる。/   私の考えでは、もう一つ、意図の読み取りが不可欠なのは、「援助」である。問題を抱えた人を助けるには、その人が何をしようとしているのか、何をしようとしていないのかを見極める力が必要だ。幼い子どもたちは、意図の読み取り能力を、自分のため(この道具はどう動くのか、どのボタンでテレビがつくのか)だけでなく、他人を助けるためにも使うのか? 例えば、誰かが物を落として手を伸ばしたとき、幼児は、落としたのは偶然で、相手が今その物を拾おうとしているのだと理解できるか? 助けることができるか? このような疑問に答えるきっかけとなったのは、社会的遊びの研究で1歳の男の子と一緒に床を這って遊び、適切なパートナーになろうとしたときのことだ。ボールが私の手の届かないところに転がり、私が届かないふりをすると、男の子は立ち上がってボールを拾い上げ、私の手に渡した。/   この瞬間をきっかけに、幼児の利他的行動に関する一連の研究が始まった。これらの研究から明らかになったように、子どもはさまざまな方法で他人を助け、それを人生の早い段階から始めている。私と同僚は、1歳8カ月の子どもたちに、ある行動をする実験者を観察させ、突然問題が発生して実験者が目的を達成できなくなるという状況をいくつか作り出した。すると、子どもたちは、頼まれもしないのに、ご褒美ももらわずに、手伝いをしていることが分かった。実験者が地面に落として手を伸ばせないでいるものを、子どもたちが拾ってあげた。実験者が雑誌の山を運んでいて開けられなかった戸棚の扉を開けてくれた。滑り落ちた本を元の場所に戻すのを手伝ってくれた。ある箱の開け方を習った後、実験者が誤ってスプーンを穴から箱の中に落としてしまい、それを取ろうとして手を穴に押し込んだのを見て、習った技を使って箱を開け、スプーンを取ってあげた。子どもたちは、助けが必要かどうかを判断し、さまざまな状況でそれを行えたようで、これは幼児期の早い時期に出現する知的意図読解能力を示している。”Children’s Helping Hands,” by Felix Warneken in Future Science: Essays from the Cutting Edge, edited by Max Brockman, Vintage Books, New York, 2011, pp. 17-19 . (原文は下記,翻訳は自動翻訳⁺I氏)